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日頃から好んでよく行くミニシアターに関係する告発と声明とそのまわりの言説をtwitterで追っていた。10日前から問題になっていたようだが全然気がつかなかった。好んでよく行く理由として少なからずその館の人権意識への信頼が関わっていたので深刻に受け止めた。通うことをやめることはないと思うがこれを忘れることもしないようにしたい。以下はこれらと直接関係しない覚書である。

自分はまだ学生で、仕送りも十分に貰っており、仮に半年アルバイトが出来なくなっても十分やっていける状態にある。余裕がある。アルバイト先はいくつかあっていずれも自分の好きなものに関わる業務である。どの職場でもできるだけのことをしたいと思う。そこで働き続けたい、人間関係維持のために心象をよくしたい、能力を認めてもらいたい、さまざま思いつく動機すべて「●●が好きだから」というところから派生している。業務中は大体いつも早く帰りたくて「ここが好き!」などと殊勝な心境になることはほとんどない。でも業務外の時間に自分のアルバイト先について考えるとやっぱり「有難いなー」と思う。好きなことに関わっていながらお金まで発生するなんてと思う。呑気に「有難いなー」と考えられるのは明らかに私が学生だからで、経済的に余裕があるからだ。無意識に他人にも同じ論理を適用していないか恐ろしい。

実際サークルに所属していた時期は自覚すらしていなかった。仕事がやりたいのでサークルに入った以上、仕事をやるのは当然であり、喜びだった。メール返信が遅かったり頼んだことを忘れていたり乗り気でないように見える同期は「仕事しないやつ」として扱われていて、私はそれに疑問を抱いた。「そのひとが仕事しないのは仕事をしにくい環境だからだ」と考えた。「そのひとが仕事しやすい環境づくりのためにはもっと皆でナカヨクするのがいい」と思っていた。多分。まず、構成員である以上仕事はしなければならないもの、もっと言えば楽しくしなければならないものだという前提を内面化していたこと。さらに他者をもその論理に巻き込んで、関係性というプライバシーな部分で懐柔しようとしていたこと。ものすごく間違っていたと思う。サークル活動という公私の領域や人間関係の上下が曖昧な場で、権力も影響力もないひとりの構成員だったから問題が顕在化していなかっただけだ(というかそれも間違っていると思う)。

好きなことに全力を打ち込む行為は往々にして美化される。好きなことに全力を打ち込む自分を往々にして美化してしまう。美しいことは否定しない。美しいと思うことは原動力になる。だけどそれは簡単に利用される。やりがい搾取という言葉が一般に使われる。誰かが悪意をもって利用している時はそのひとを糾弾すればいいので簡単だが、構造上の問題で特定の一人に責めを負わせられないときがある。そういうことの方が余程多いだろうし、余程改善困難だろうと思う。上に書いたようなことを当時周りに話していたとしたら? あまり芳しい反応は帰って来なかったような気はするがわからない。当時の自分には理解できなかったと思う。今も気づいていないことが沢山あるんだと思う。怖い。他者の生活を心を生命を脅かすことは何人たりとも許されない、原則を諳んじるだけでは何の意味もなく、自分の行為が直接的にあるいは間接的に他者を脅かしていないか、自分の考え方がそういう可能性を孕んでいないか、常に点検しなければならない。

違うな。こんな外面のいい意志表明をしたかったわけじゃないんだけど、あの時間違っていたから→修正して→成長したいという作文のパターンを思考が逸脱していかない。昨日映画「間宮兄弟」をみて今日は小説を読み返した。文庫版の著者後書きに兄弟の「親密さ、排他性、ねじれ」ということが書かれているが、小説の方がわかりやすい。二人ぽっちの間で依存しあおうが女への偏見を共有しようがお互いの問題点を見て見ぬふりしてようが、別に誰にも迷惑をかけてないし、むしろ二人がそれで幸せに暮らせるならそれでいいような気がしてくる。グロいといえばグロいけど、外野からそんなふうに批判するのも野暮だと思う。でも本当にそうなんかな。かれらは今も同じように静かで心地いい生活を続けられてるんだろうか。