仕事と家事とあそびと抑うつとネットサーフィンと市民運動と…みたいに腑分けしていけば、からだがいくつあっても足りないようなこのごろの暮らしだが、実際には渾然一体になって溶け合っているので、今のところこの身一つで、不思議となんとか足りている。とはいえTwitterとpodcast聴取にかなりの時間を割いてしまっており(😞)、できることならインターネット用のからだと頭がもう一対欲しい。
デモに行ったりスタンディングをしたりビラを配ったり署名をしたり選挙に行ったりシンポに行ったりあとはまあニュースやなんやを拡散したり、いってみれば〈政治的〉な行為はすでにもう自分の暮らしの一部である。普段の生活の中で社会情勢のことを周りの人と喋るのもひとつの〈政治的〉な行為だし、みんな多かれ少なかれやっていることではあるけれど。しかし上記のようなことをするのに、少し前までの私は一回一回、毎度それなりに緊張して、自分の一挙手一投足が社会を少しでも変えるに違いないとそれなりに気張り、結果に疲弊していたのだった。
そうして振りかぶっては落胆することを繰り返すうちに、私よりずっと前から、ずっと力強く正確にバットを振り続けている人たちが見えてくる。空振りのことも多いらしいのだが、淡々と真顔でバットを振り続けている。何年、何十年と、交代で、あるいは大勢集まって。
かれらが病みふせったとき、ちょっと休んでだらだら酒でも飲みたいときのため、交代要員になる。とんでもねえでっかい暴投が来たときには、バッターボックスにみんなでミチミチに並ぶことで、打ち返せる確率が高くなるようにする。いち市民としてこの社会に生きるということを、最近はこんな感じでイメージしている。
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3月に参加したイベントの中で斎藤真理子さんが、「よいことと悪いことは二重螺旋のように私たちを取り巻いている」「悪くなるばかりのこともあれば、確実によくなっていることもある」といった趣旨のことをおっしゃっていた(とおもう)。絶望と希望、それこそ二本の手で抱きしめられたような不思議な気持ちになった。
今、この世がどれほど暗いか、渦中に生きる私たちが正確に測ることは難しい。どこかの国、どこかの時代と比べて今の苦しみが楽になるわけでも、殺された人が生き返るわけでもない。ただ歴史に、先人に学ぶことはきっと重要で、どちらが明るいほうなのか、過度に忘れやすい私たちに何らかの方針をもたらすはずだ(銀河の一票に明らかに感化された言い回し)。バットをより精緻に振れるように、あるいは体力をつけるために、私はもっと学ばなければならない。
死ななくていいのに死なされてしまった者たちのことをふとしたときに考える。歴史を学ぶ。友達と酒を飲む。お茶を沸かして冷蔵庫で冷やす。ナフサ不足の影響がいつ及ぶかと怯えながら仕事をする。新聞を読む。だらだら眠る。行ける時はデモに行く。行かずに寝ていることもある。年上の人の話を聞く。戦争反対を叫ぶ。毎日全身で絶望しながら、もっとこの世はよくなるはずだと信じている、ふつうに。