9/16

前言撤回である。調子はよくない。気分は上々だが、何ら効率は上がっておらず、今日はキングオブコントの過去会の配信をひたすら見た。先輩と3時間電話した後に友人と3時間電話した。カエンタケについて調べものをした。カエンタケは触るだけでも害があるので気をつけないといけない。似たキノコにはベニナギナタダケがある。

9/15

四日くらい前に、三年と一ヵ月運用したtwitterのアカウントが死んだ。ログインとログアウトを繰り返していたら「不審な動きをするアカウント」と認定され、電話番号での認証を求められ、去年新しくした携帯電話の番号を登録し直すのを忘れていたから、もうどうにもならない。いくつもの無意味な文字たちが、存在しない番号に向かって列をなして飛び立ち、もう二度と戻ってこない。もしくは、新しい持ち主の所にいくつも届いて、心当たりのない人を困らせているのだろうか。だとしたら申し訳ないと思う。

人の日記を読むのは楽しいから、twitterは楽しくて、いつまでも留まれてしまう。人の日記を読むときには、その人の引き出しをこっそり開けたり、机の上に開いたままのページをそれとなくのぞき込んだりしなければならないが、twitterではお互いに了承を得ているので、盗み見の緊張感がない。文字も入れ物もみんな同じだから、時々自分のものと見分けがつかなくなる点でも、違うかもしれない。そういう所が好きだけれど、同時に怖くもある。というか普通に研究がはかどらないので、なるべく見ない様にしたくてログアウトを何度も試み、数十分もすれば物足りなくなってログインし、そういうふうにしていたら、死んでしまった。

あんまり悲しいので、誰かに会う度ことの経緯を喋ってしまい、喋るにつれてそれ程大したことでもないような気もしてくる。「私の徒然草が、枕草子が」と大袈裟に言ってみたら、大袈裟すぎてとても恥ずかしくなった。生活の断片やふとした時の寂しさをメモ代わりに書き留めていた自分のタイムラインのことを、結構気に入ってはいたけれど。遠くに住んでいる近しい人のサインを鈍い自分でもすぐに気づけるようにと思って運用していたアカウントだが、本来の目的はいつしか薄れ、ときどきアピールに傾いて消耗した。ああいうアカウントはしばらく作らずに過ごしてみたい。

そうは言っても惜しいのは会話を始める気安さで、twitterで初めて話した人も、3年ぶりに話せた人もいる。好きな映画、読んだ本をpostすれば、誰かが反応してくれることがあって、その逆も然りである。幸い、前からの知り合いとはtwitter以外にコミュニケーションをとる方法があるけど、そうでない人達と疎遠になるのが悲しい。かといってアカウントを新しく作って改めてフォローしてまわったら、結局同じことを繰り返すのも目に見えている。この辺りが悩ましくて、すぐに作り直してしまうかもしれない。しばらく様子見する。少なくともこの三日くらいは、普段に比べればインターネットを見る時間がぐっと減って、ちょっと調子がいい。

9/8

電車の中や図書館で、席をみつけて座ると大抵、近くに座っていた人が時間を置かずに去っていく。そういうことが多い気がする。今日も学校の図書館で、窓際の席を見つけて座ると、三つ隣の席の人がそそくさと違う席に移動していった。気がする。私が席についてすぐ携帯を取り出して、しばらくいじっていたのが良くなかったのかもしれない。「こんなだらしのないやつが近くにいたんじゃ出るやる気も出やしねえ」と思われたのかもしれない。もしくは今の私を取りまく気の悪さみたいなものが見えるタイプの人だったのかもしれない。黒紫色の竜巻が目の端に入って気が散るので、場所を移したのかもしれない。あるいは実際私がくさかったり、見た目が嫌だったりしたのかもしれない。いくら考えてもどうしようもないことだが考えずにはいられない。小さい頃に優しい医者が私の目に手術を施してせめて自分で自分の姿を見る時くらいほどほどに普通に見えるようにしてくれたのかもしれない。気のいい呪術師が洗脳をかけてくれたのかもしれない。だから普段鏡を見る時は気づかないでいられるけど、他の人にはとんでもない化け物に見えているのかもしれない。いずれにせよ大きなお世話をしてくれたものだと思う。知り合いはみんな優しいし見た目をどうこういってくる人じゃないから気にせず近くにいてくれるのかもしれない。しかし自分は洗脳にかけられているのでその人たちの優しさにも気づけていない。呆れた事だ。涙が出る。先ほど試しに自分が喋ったり歌ったりしている姿をスマホで撮って見返してみたが何だかものすごく変だった。どのあたりがと聞かれれば、例えば瞬きの多さだったり黒目だけ右に流す癖だったり口の動かし方だったり、とにかく色々変だった。思っているより太っているとも思った。自分である程度想像していたのと違っているのが嫌だった。この三日くらいとにかく色んなことが、しょうもないことが気にかかって、落ち込むことが多い。生活リズムが崩れているとか勉強がはかどっていないとか生理二日目とか昨日まで副反応が残っていたとか色んな外的要因が考えられるが渦中にある時そんな分析は何の慰めにもならない。とまでは言わないが、わかっていても落ち込むものは落ち込む。ほんの5パーセントくらい落ち込むのを楽しんでいるようにも思われる。宇佐見りんの「かか」のなかに、おかしくなってしまったかどうかは電車に乗ればわかる、その人の周りだけ誰も座らないから、という一節があった気がする(結構違うかもしれない)。私もずっとおかしいのかもしれない。それならそうでずっと同じ場所に居座り続けてやる。尻から順に溶けて行って、最後に目玉二つだけ残る。死にたくなったことはこれまで一度たりともない。最高。最高で最低で最高です。夕飯はミリオンのインディアンハンバーグ。古い空調が終始大声で歌い続けて店の中まで雨降ってるのかと思った。

9/6

一昨日ワクチンを接種して、昨日の夜に少し熱が出た。21時すぎに一度寝て、日付が変わか変わらないかの時間に目が覚めると、妙に冴えてしまって寝られなくなった。Spotifyを開いてアジカンを再生する。歌詞を眺めながら「ファンクラブ」と「ワールドワールドワールド」を続けて聞くと色んなことがわかるような気がして、昔の音楽体験に近かった。朝になって思い出してみると、昨日思い描いていたのは安直な単線的発展のイメージで、両者がコンセプトアルバムであることを踏まえられていない点も含め、至らない点が多かった気がする。夜更けの大発見は全然あてにならない。が、久々に楽しかった。一度も気に留めたことが無かった「トラベログ」に今すごく親しさを感じる。あと「センスレス」のイントロがやっぱりめちゃくちゃかっこよくてベッドごと細かく震えた。

9/3

朝から雨が降っているのにサンダルで外に出てしまった。ソールがコルクの様な材質で出来ていて、水が入り込むと表面がざりざりして、足の裏が気持ち悪い。歩行中に擦れるせいで、消しかすみたいなのが発生するのだ。劣化も早く進んでいると思う。それでも濡れた靴下を履き続けるよりはずっとましだから、結局サンダルを選んでしまう。避けきれなかった水たまりを一瞥、くちゃくちゃ音を立てながら横断歩道を渡る。自転車に乗る様になってから、歩行速度も随分落ちた気がして、以前なら余裕で渡り切れていたはずなのに今日は終わりで赤信号に引っかかった。サンダルはくちゃくちゃいっている。サンダルで外出する季節も、直に終わる。久しぶりにカーディガンをひっかけた。

数日かかりきりだった作業を昨日の夜に概ね終わらせたので、かなり気分がいい。しばらくおざなりになっていた卒論に取り掛かろうと思って図書館にいる。先行研究を20ページくらい読んだところで完全に空腹に気がついてしまって、何も手につかず日記を書いている。自分の身に起こったことをすぐさま書きだしてしまうと、安心してしまうというか、実感が薄れる速度がはやい気がして、最近あまり日記を書く気になれない。かといって何も書かないなら書かないで、些末なドラマが二度と思い出せなくなるかもしれず、リスクがある。今年のはじめに定めた目標の中に、「日記を毎日書く」というのがあるが、全然達成できていない。一度決めたことは取り敢えずやってみて、それからメリットデメリットをきちんと導き出せばいいのに、なんとなく最善じゃなさそうと思うと、やる気をなくす。仏教には詳しくないが、中庸というのは、常に一所にとどまるものでも、単にS極N極を足して2で割ればいいというものでもないのではないか。固定的なものを疑わしく思う。この五年で考え方が大きく変わった部分のひとつ。

8/13

レジュメ提出の締め切りが近いのに全然中身のない書きかけのワードファイルを目の当たりにすると情けなさで腹が痛むので休憩する、本を読む気になれなくてまだ見ていない動画を漁る、かが屋を見ていた昼間はよかったけど、夜辛いものを目にしてしまって、辛いのにあれこれ見漁って余計に辛くなる。「僕にもっと金があれば母親にもっといい治療を優先的に受けさせて長生きさせられたかもしれない、金のあるなしで命に優先順位がつけられている」みたいなことを言っていた。他者が介入できないストーリーで自分の思想を正当化する方法は、自覚的に選んだんじゃないかという気がする。全ての人が医療行為を受ける権利を持っていないとおかしくて、そうでないなら現行の社会制度がおかしい。なんだけど、あの人がわざとそういう話をしたんだとしても、やっぱりちょっと悲しかった。そんなふうに考えてしまうのは、辛いだろうなと思った。あの人個人にどんな酷い制裁を下すかより、どうしたらあの意見が絶対間違っているのだという共通理解が形成されるか考える方がずっと大事だと思う。胸苦しさの行き場がなくて、前から知っているNPOに初めて寄付をした。褒められたもんじゃない動機だけど、ともあれ寄付したお金は有効に使われるはずだから、安心。

私を分かってもらうために、例えば好きな駄菓子とか、嫌いな季節を教えるだけじゃなくて、こうした問題に立ちあった時の立場を表明しないといけないような気がしてきている。どんどんしてきている。ずれている部分はほったらかして、共鳴できるところだけで気持ちいいコミュニケーションをとれたらいいと思う時もある。そういう相手もそりゃ、いる。だけど今後10年、20年付き合いたいやつには、やっぱりわかっていてほしい気がして、「私はこう思うんだけど」と話したら「あ、そう」で流されて、後悔する。話し合いにならないのなら、表明する必要もなかったかと思う。ていうか、話し合って結局分かり合えなかったらどうすんの。「こんなこと言っているけど本当はいいやつなんですよ」がこの世で唯一まかり通るのが友人関係だという気もする。だけど、特に今引っかかってしまう意見の相違は、ぶつかる度にすごく磨り減る類のもので、関係性にも変化をきたすだろう。変わらずに続く関係なんてないから、それでいいのか。だけど怖い。ぐるぐるしている。ぐるぐるした言葉で書くから、余計にぐるぐるする。このぐるぐるを今すぐ整理するのも、なんか決定的に間違えそうで、怖い。

8/4

出町座でケリー・ライカートという監督の特集をやっている。一昨日は「Old Joy」を観て、さっき「River of Grass」を観てきた。あと二作品も観に行くと思う。

映画が好きな友人がいて、時々おすすめのタイトルが送られてくる。大学2年生になるまで映画を観に行く習慣がまるでなかったので、観る映画の選び方もまだわかったとは言いきれず、それで勧められたら大体観に行くようにしている。「花様年華」「わたしはロランス」「燃ゆる女の肖像」「満月の夜」など。いずれも大変面白く観た。映像がきれいで、突然の大きな音や爆発や暴力で驚かしてこないのを選んでくれている気がする。ケリー・ライカートはその人に勧められたわけではないけど、出町座が参加する特集だったら、と大体同じような動機で、よくわからないけど観に行った。「Old Joy」に出て来るカートの濡れた巻き髪が印象に残って、あと聡明な犬のルーシーが夢中で棒を追掛けるさまをもう一度みられるかと思って、「River of Grass」も観た。今度のにはルーシーは出てこなかったし、何なら犬は殺された。その代わりコージーに会った。これから何度も思い出す。ぱさついた赤い髪。

空も海も草っぱらも、開けてずっと遠くまで見渡せるのに、真ん中にコージーやリーがいるとすごく息の詰まる景色に見える。晴天つづきですごく喉が渇くから、太陽を避けて、電気の消えた風呂場でバスタブに浮かんだり、夜のプールに躊躇なく飛び込む。憂鬱な水色のサマーセーター。くすんだ青色の車。行為は意志の産物? そんなわけない。コージーには今しかないから、過去や未来に選ばされない。最後のシーン、あの人には目の前の道しか見えていないと思う。目の前の道すら見ているか怪しい。本当に、二人の子どもも、夫も、父親も、リーすらも、忘れてしまっていると思う。

コージーの印象がつよいけど、結構笑いどころが多くて、それも気に入った(台所シンクで洗浄されるモルモット……)。警察官の爺さん連中、渋すぎてマジで鼻血が出るかと思った。