8/8

喉元を起点にうっすらと体調を崩してうっすらと熱を出し、お盆期間に入る直前に2日間会社を休んでしまった。リモートワーク体制は整備されてないから、どうせ仕事できないし、本でも読んですごそうと思ったが、結局アイドルの動画を見ては惰眠を貪り、それだけであっという間に2日が過ぎた。体は重く、布団がさらに重しになって、白和えの下拵えみたいにベッドを通して体の水分が少しずつ落ちていく。硬く小さく萎んでいって、最後に目玉だけが残るイメージ。とは裏腹に体は(時々咳が出るほかは)健康そのもので、うるおってはりはりとしている。風呂をとばせば皮脂由来の動物の臭いもする。今日はシャワーも浴びられたし、布団も干せてよかった。

かなり参っていて、投げやりな気分になっている。ここ数ヶ月遠出の機会が多く、体調を崩さないように気を張っていたのが、緩んだ影響もあるのかもしれない。その間ずっと現実逃避していたのを、人から言い当てられたからかもしれない。久々に顔を出した場所で、自分の無責任さをつきつけられたから? なんにせよ自分の至らなさによるものだが、至らない自分も散らかった部屋もどこかに置いて、また遠くに行きたくなってしまう。

5/18

昨日は好きなアイドルが見たくて、街中で開催されているフェスを少し巡った。年上の友達も来てくれたのだが、ライブ中は推しを見るのと拙い振りコピに必死になりあまり様子を伺えなかったのだけれど、終わった瞬間に「なんか涙出たわ!」と言ってくれ、たまらない。ライブハウス前で解散し、いい気分のまま、初めて特典会にも参加してみようか、とも思ったけどやはり勇気出ず。物販でアクスタを買ってそそくさと逃げ出す。バカみたいに天気がよい日。好きなアイドルは今日もすてきだった。

ライブを回る合間合間に休憩と称して喫茶店に入りビールをかっくらっていたのだが、夜から体調が急降下して、もう明らかに熱中症である。夕方、家の近所まで戻ってほっとして、スーパーの3階の端っこにあるチェーンのカフェに入り、ちっちゃいバケツみたいなグラスでアイスコーヒーを飲んだのも、きっとよくなかったろう。5月の半ばに熱中症。もうわれわれの地球は駆け足でおしまいになろうとしている。

21時ごろから横たわっていたがカフェインで覚醒し切っていて、眠るのもままならない。過度に悲しい気分になり、「スマホ依存 どこから」などとスマホで検索して情けなくなったりもした。

今朝、まだ体調万全ではなかったが、朝から打ち合わせが入っているのでなんとか出社する。沸かした湯に梅干しをひとかけ入れてお椀でちびちび啜っていたら情けなさで涙が出そうになった。とはいえなんとか会社に行ったら、18時くらいにやっと万全になってきて、少し遅くまで残業した。待たせてしまっているものがあり、明日には送ってしまわないといけない。

近所のラーメン屋に入り半玉ラーメンを夕飯とする。いつのまにか、A1サイズはあろうかというプデュのポスターが額装されて壁にかけられていて、候補生に見守られながらチャーシューを食った。帰宅後なにもせず。緑茶を夕方以降に飲んだので、眠れない。

5/14

仕事と家事とあそびと抑うつとネットサーフィンと市民運動と…みたいに腑分けしていけば、からだがいくつあっても足りないようなこのごろの暮らしだが、実際には渾然一体になって溶け合っているので、今のところこの身一つで、不思議となんとか足りている。とはいえTwitterとpodcast聴取にかなりの時間を割いてしまっており(😞)、できることならインターネット用のからだと頭がもう一対欲しい。

デモに行ったりスタンディングをしたりビラを配ったり署名をしたり選挙に行ったりシンポに行ったりあとはまあニュースやなんやを拡散したり、いってみれば〈政治的〉な行為はすでにもう自分の暮らしの一部である。普段の生活の中で社会情勢のことを周りの人と喋るのもひとつの〈政治的〉な行為だし、みんな多かれ少なかれやっていることではあるけれど。しかし上記のようなことをするのに、少し前までの私は一回一回、毎度それなりに緊張して、自分の一挙手一投足が社会を少しでも変えるに違いないとそれなりに気張り、結果に疲弊していたのだった。

そうして振りかぶっては落胆することを繰り返すうちに、私よりずっと前から、ずっと力強く正確にバットを振り続けている人たちが見えてくる。空振りのことも多いらしいのだが、淡々と真顔でバットを振り続けている。何年、何十年と、交代で、あるいは大勢集まって。

かれらが病みふせったとき、ちょっと休んでだらだら酒でも飲みたいときのため、交代要員になる。とんでもねえでっかい暴投が来たときには、バッターボックスにみんなでミチミチに並ぶことで、打ち返せる確率が高くなるようにする。いち市民としてこの社会に生きるということを、最近はこんな感じでイメージしている。

 

 

3月に参加したイベントの中で斎藤真理子さんが、「よいことと悪いことは二重螺旋のように私たちを取り巻いている」「悪くなるばかりのこともあれば、確実によくなっていることもある」といった趣旨のことをおっしゃっていた(とおもう)。絶望と希望、それこそ二本の手で抱きしめられたような不思議な気持ちになった。

今、この世がどれほど暗いか、渦中に生きる私たちが正確に測ることは難しい。どこかの国、どこかの時代と比べて今の苦しみが楽になるわけでも、殺された人が生き返るわけでもない。ただ歴史に、先人に学ぶことはきっと重要で、どちらが明るいほうなのか、過度に忘れやすい私たちに何らかの方針をもたらすはずだ(銀河の一票に明らかに感化された言い回し)。バットをより精緻に振れるように、あるいは体力をつけるために、私はもっと学ばなければならない。

死ななくていいのに死なされてしまった者たちのことをふとしたときに考える。歴史を学ぶ。友達と酒を飲む。お茶を沸かして冷蔵庫で冷やす。ナフサ不足の影響がいつ及ぶかと怯えながら仕事をする。新聞を読む。だらだら眠る。行ける時はデモに行く。行かずに寝ていることもある。年上の人の話を聞く。戦争反対を叫ぶ。毎日全身で絶望しながら、もっとこの世はよくなるはずだと信じている、ふつうに。

5/13

福岡県直方市に本社を置く、福岡を代表する老舗米菓企業、もち吉。昨今の有力商品として、出来合いのお揚げにお餅を入れてレンチン1分で完成する「いなりあげもち」があり、これがまあ手軽なうえにめちゃくちゃ美味い。甘いお揚げに柔らかい餅が入ってて、食うだけで正月が来たみたいな気分になる。

今日Twitterをみていたら、いなりあげもちがバズっていた。何かと思えば、パッケージ裏の作り方を図解しているところに描かれている、キャラクターがかわいいという主旨のバズなのだった。キャラクターはその名も「もちなりくん」。私は、ここ三年くらいはいなりあげもちに首ったけでありながら、この「もちなりくん」の存在に、マジで1ミリたりとも気が付かなかった。不覚と言わざるを得ない。ぼんやりどこも見てなさそうなつぶらな瞳、とくに誰かに媚びているわけでなく元からそういう顔ですと言いそうな口角の上がり方、おのずからおあげを纏いレンジに入っていく様、すべてが、あまりにかわいい。ほんとうに、かわいい。

妹と電話して、もちなりくんの魅力にひとしきりきゃあきゃあ騒いでいたら、向こうから祖母が「もう寝ろ」とドスを聞かせてきたので、おたがい「モチ」「モチ」と言って別れた。今度グッズを買っといてもらおうと思う。

 

 

【追記】

直方駅に程近いもち吉の店舗には、食券制のイートインがあって、うどんやソフトクリームのほか、いなりあげもちが食べられるのでおすすめです。ここで実家へのお土産もふくめていなりあげもちのパックを四袋買った。紙袋を受け取ったらズシンと重くて、四袋でこんなに!?と思ったら1リットルの水(その名も「力水」)がおまけでついてきててちょっと太っ腹すぎるのでした。きっと水が美味しいから米が、そしておせんべいがおいしいんやね…♪

5/12

3時半に中途覚醒して眠れなくなってしまった。いまは4時半。だんだん外がほの明るくなってきて、窓を開けるとちょうど、酔っぱらった身体に親切な冷たい風が入って気持ちが良い。今は窓際にベッドを据えているのだが、微妙にベランダに出づらい配置で、できれば今年中に模様替えをしたい。いい加減本棚も買いたいのだ。この四年何回家具屋に行ったことか。

聞き書きをさせてもらいたいと思っている人がいて、なかなか言い出せないでいたのだが、昨日やっとお願いしてみたらこころよくOKしてくれた。開けっぱなしの入り口からわんさか羽虫や蛾やカメムシが入ってきて、天井の明かりに自ずからぶつかっていくのをみながら、ビールをちびちび飲み、言い出すタイミングを狙って2時間もじもじしていた。が、いざお願いしてみたら聞き取りの日にちもとんとん拍子で決まり、あっけないほどで、肩の力がずいぶん抜けた。来週までに色々と準備する必要がある。

この手の緊張に覚えがある、と感覚を辿っていって、五年前(!)に初めて人に告白して振られたことを久々に思い出し、中途覚醒ついでにその時期のツイートや日記を眺めていた。21-22歳くらいが一番しんどくて、そのぶん自分と向き合う時間も長くて、面白いようにものが考えられる時期だったかもしれない。しかし当時は急に自分の周りの「社会」みたいなものが見えはじめた気がして、いろんなことがわかった気になっていたけど、他人への想像力が全然欠けていた。急に人前で泣いたり怒ったり(コロナ禍の不安で色々思うようにいかなかったのもある)、突拍子もないタイミングで告白したり、迷惑をかけたし友達も失って、そこから数年は反省の沼の底にいた。ただアラサーになった今の自分は、20そこそこの私が客観性に囚われきらないで、結構めちゃくちゃに振舞っていたことを嬉しくも思うのだ。

5/11

私の基本的な方針というか、何か実りあることを行った日のことは全然日記に書く気にならず、昼間のほとんどを飲酒とYouTube視聴に費やした、今日みたいなぺらぺらの日にばかり、足掻くように日記を書きつけるのである。ただ、オダウエダというコンビへの理解が深まったので全く無意味な数時間ではない。自分の裸を、誰にどんなふうに見せるかは、自分で決めていいんだ!自己決定の潔さに感動した。

夕方四時過ぎになんとか家を出て、映画を一本見た。「花緑青が明ける日に」という作品で、大好きなアニメーション作家の方が特殊映像で関わられているので、公開前からずっと見たいと思っていた。彼女がとらえる水だ!光だ!というシーンの数々。先週牛窓に旅行したとき、オリーブ園の展望台から、しずかな瀬戸内海と相対するようにメガソーラーが広がる景色を見た。もともとは大きな塩田が広がっていた干拓地だそうだ。死んだ海面みたいにきらきらひかるソーラーパネルが脳裏に焼きついて離れない。よいタイミングで見られたと思う。

その後学食によって夕飯。ぶりとろろ丼に納豆を別で買って乗せて食べる。

今は図書館で明日の打ち合わせに向けて軽く調べ物をしているが、打ち合わせがあるという事実に気持ちが萎えてなにも手につかない。つくづく自分という人間のコアは「怠惰」だと思う。他人が外に連れ出してくれるからどうにかなってるだけで、誰とも関わらずに生きられるのであったら、もう家の中で、やわらかく白い球体に成り果てて、面白いかどうかもわからない動画視聴を延々繰り返すだけになっていると思う。