9/6

夢の中で上原の顔は高校時代とてもよくしてくれた国語の先生のそれで、私はかず子の目で彼の顔を見上げていたが、決してかず子は私じゃなかった。「しくじった」という言葉がいやに胸に残って、放課後ノートを持って行くついでに職員室の前で立ち話する時なんか、その先生が例のにやついた顔で「しくじった」というところをいつも想像するのだった。片想いなしには生きられない性分であるらしく、毎回都合のいい相手をその座に据えて、頭の中で勝手にあれこれ言わせたり、意味のない仕草に意味を見出してどぎまぎするのが癖だった。半分は勉強に張合いを持たせるためでもあって、打算の混じった小汚い片想いである。友人の中には「あの先生が好き」と公言してはばからない人もいて、そういう健やかさを妬ましく思った。クラス中に応援されながら先生に頭をなでてもらいに行った子のことを、そんなことをしたって好意がかえってくるわけでもなし、とひねくれた目で見ていた。

『斜陽』はあれきり読んでいなくて、昨日話題に挙がった時もろくな内容を思い出せなかった。久々にサークルの友人が6人くらい集まって、一人の家で飲んでいて、夜中に水やら酒やら買い足しに行った帰りだった。私の為にそういう内容を持ち出してくれたのは分かったから、何か返さないとと思ったけれど、「太宰の書く女は理想化されているから、あんなのいないと思った方がいい」とかなんとか、よそで聞いたことのある話を持ち出して、その実私は聖母の実在を信じていて、そんなことひとかけらも思っていないので、自分にすごく腹が立った。

川辺でピノを食べながら暫く話し込んでいた。もう1人が「しくじった」のことを持ち出した。そいつも「しくじった」が一番格好いいと思って、鉛筆で線を引いたんだと言っていた。私はそいつとこういう所で気が合ってしまって、以前はこんな一致に舞い上がっていたけれど、今は却って淋しく感じる。太宰の話をしはじめた1人は、「しくじった」には何の感興もよびおこされなかったらしい。2人して煙草を吸い始めるので、一本試しに貰ったけれど、全然吸えたもんじゃなかった。喉元に煙が当たるだけで視界が灰色になって、いがいがして、寿命が二秒縮まった。煙草を吸う人の気持ちがまだ全然わからない。

かず子はどうして子どもが欲しかったんだろう。かず子にはお母さんがすべてだった。お母さんが死んで、財産も頼れる身寄りもないかず子がこれから戦って生きていくためには、恋の成就と子どもが必要だった?

太宰の書く女はいつもかわいくて、腹が立つ。信仰心が厚くって、悲しいことがあるとすぐに目を潤ませる。一人で生きて行けるたくましさがあるのに、頼りない酒飲みの男を放っておけなくて、聖母みたいに手を差し伸べる。かず子は上原に追いすがってばかりみたいだけど、かず子が追いすがってくれるお陰で、上原にも幾分か救われている部分があると思う。こういう女を、女にも男にも好かれるように書いて見せる太宰に腹が立つ。打算も小狡さも全部幼さにすり替えるところに腹が立つ。「こういう風にしか生きられない」、そんなことがあってたまるか。自分で死ななくたって、赤ら顔した歯抜けの子を孕まなくたって、もっと明るく愉快に続いていく方法は必ずあったはずじゃないか。腹が立つ。腹が立つ一方で、人間生の真理を見せつけられて深く納得している自分もいるのである。今日読み返した感想はそんなところである。あとは、ヨイトマケだって畑仕事だって何でもやってみせるわ、と自分に言って聞かせるかず子が、年下みたいに愛しかった。