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8時を5、6分すぎたところで目が覚めて、朝ドラを途中からみて、エイヤと起きて粒あんを挟んだトーストを食べ、それだけでは足りないので即席の雑炊を食べた。申し訳程度に加えた葱は、わざわざまな板を出すのも面倒で、横着して鍋の上から直に切って落とした。湯の量が多すぎたのか味がぼんやりしていた。ぼんやりした味のものを食べたのでいつまでも眠たくて、『細雪』の中巻を昨日の続きから読みながらうとうとしていた。さっきまでに下巻のはじめまで進んた。明日には読み終えるだろうと思う。ここ数日蒔岡姉妹にかかりきりだったので、もう他の勉強を再開せねばならない。今年で卒業することをすぐに忘れる。

チケットの発券と、MUSIC AGAINST COVID19に入金する用事があったので、近場のローソンまで歩いた。路地を入って住宅街を通ると、玄関先園芸の三色菫とかキンギョソウが華やかで目に楽しい。以前までパンジーはそれほど好きじゃなくて、というのは多分、黄に茶色とか白に紫とか、取り合わせがなんとなく派手好きの年寄りという感じだし、斑の入り方もちょっと虫っぽいしということだったと思うのだが、今はそういう風に思っていたことも苦心して思い出さなければならない程度で、見れば反射的に「かわいいなあ」と思う。たわいもない。用が済み、家に戻る別の道ではヤマボウシが白々として胸がすくようだった。近所にヤマボウシが立ち並ぶ通りがあること、四年目にしてやっと気づいて、今まで何を見ていたろうかと少し恥じる。

生理用品と牛乳とパンとを買って、味噌餡の柏餅というやつが気になりながら、未練をどうにか断ち切って和菓子屋の前を通り過ぎ、部屋に戻った。友人とzoomをつなげて、とは言っても喋るのでも酒を呑みかわすのでもなく、数日前から毎日取り敢えずつなげては互いにミュートして、それぞれに勉強するのであるが、今日も同じくそのようにした。ダウンロードしたMUSIC AGAINST~のデータを流しながら校正の通信教材をやった。スカートを聞いていたら何となく詩が書ける気がして、書き始めたはいいが書けなくて、結局やめにした。「君はいいよな 本当にいいよな」というフレーズだけ気に入った。「いいよな」って何のてらいも、屈託もなく言えたらいいのにと思う。何にしても。

夕方になって一度zoomを退出、おとといからつくろうつくろうと考えていた、白ごはん.comの豆乳蒸しパンを試してみる。妹を呼んで蒸したてを食べさせた。想像以上にぎゅっと重ための生地で、食べ応えがあった。豆のにおいが奥の方にして、優しい甘さがおいしかった。作り置きしていたあんこを入れて蒸した方はおやつによさそう。

夕飯はイワシのかば焼き(せっかく自分で開きにしたのがフライパンの上であえなくバラバラ死体と化し、箸でもそもそつまんで食べた)と、豆乳スープ(えのきだけ、ピーマン、長ネギ入り、顆粒だしで味つけ)にした。さっき蒸しパンを食べたのでご飯は抜いた。豆乳を早く使い切らなければいけないが、なかなか減らないので困る。豆乳単体だと、私には少し飲みにくい。無調整だからかしらん、200mlパックの味がついた方も試してみたい。

食べ終わって皿を洗って、またzoomを繋いで、『細雪』の下巻にとりかかる。演習で他の方の発表があるというので大急ぎで読んでいる、いつか読もう読もうと思っていたので何の躊躇もなく自費購入したが、読んでいる間中、苦虫をかみつぶして一度飲み下して戻してもう一回飲み込んだ、みたいな顔をしてしまう。美しい文体/美しい日本の文化/四姉妹/戦争 というようなキーワードだけを前情報として読み始めたのだが、私はすっかり現代人なので、家柄とか身分とか世間体とか社会への体面とかもう、もう、窮屈で窮屈で仕方がなく、悦子の話が出てくると嬉しくてずんずん読めてしまうが(妙子が赤痢にかかったのを知った悦子が幸子に、屋敷に呼び戻すよう言い立てるところなんか、よく言った!と叫びそうになった)、橋岡と雪子の縁談話の部分なんか特に、読んでいて非常な不快を覚えた。雪子に腹を立てた自分に不快を覚えた。行き遅れていることに居心地の悪さを感じているのは事実らしいのに、いつまでたっても自発的な行動を起こさない、ロクに相手と話そうともしない、いったい何を考えているのかわからない、幸子と一緒にこの煮え切らない日本美人に生卵を投げつけたいくらいむしゃくしゃしたが、しかしそもそも、「30過ぎてどこにも縁付いていないなんて恥ずかしい」とか「来年は厄年だから早くしないといけない」とか、そういうの全部とっぱらったら、雪子はそもそもこんなに何度も見合いを重ねる必要もなく、周りからとやかく言われる必要もない訳である。人見知りは生まれつきの性情で、それをしつけの悪さとか、そんなふうに貶められる筋合いもない。思考が飛んで、小学校で大きな声を出せずに怒られていたあの子は、なんで怒られなきゃいけなかったかな、と今更不思議に思う。

むしゃくしゃするのはしかし本当で、読んでいてすごく疲れる。戦火が間近に迫っているのにこの人たちはいつまでも呑気でいて、こだわる必要もないものにこだわっているように見える。はじまりつつあった戦争の裏側で、そんなことより大事なことがある、と泣き笑いする人たちは、ある側面からみれば非常に人間的というか、かわいらしいとも言えそうだが、しかしやっぱり腹が立つ。旧仮名遣いのままであったら、また少し読み口が違ったかもしれない。

さっき120頁くらいまで読んで、腹が減ったので蒸しパンを食べて、白ごはん.comを見ながら明日の夕飯を考えて、今に至る。さっきからずっと待っているLINEがあるのだが、一向に来ない。もう来ないのかもしれなくて、くよくよしている。くよくよついでに、借りた図書を延滞したことにも気づいて、さらにくよくよ。bump of chickenに慰められる。fireflyもwhite noteも、久々に聴いたらとてもいい曲。

毎日寝る前にnhkの特設サイトで、その日の感染者数を確認する。スマホの上で細い細い棒グラフをタップして、今日の数字を確かめて、ああ増えたな、とか、減ったな、とか思う。不安になるようにわざと自分で仕向けている感じがある。そうでもしないと、どうしてずっと部屋にこもりきりで、本を読んだり料理をしたりしているのか分からなくなる。実際一日に何度か忘れる。こうしていても十分に生きていけてしまう。時々人恋しくなるが、他のひとも皆同じだと思えばそれほど苦しくない。苦しくないのに、落ち着かなくて、今あの人は何をしているのか、と気になって仕方なく、大勢の知らない他人の中に身を置く方が、よほど簡単にひとりになれる、と改めて思い知る。

そうして不安に自ら身を浸すくせして、苦しんでいる人たち、死にゆく人たちの顔が想像できる具体的なニュースを目にすると、一丁前に落ち込む。こうして呑気に過ごしている自分がそれこそ、時局を気にしながら結局卑近なものたちばかりの蒔岡さんたちみたいに思える。バイト先も両方五月頭まで出勤できないようになって、授業も前期は全部オンラインだということだし、「時間の流れ方が変わるわけではないんだから」と自分に言い聞かせてみても、実際変わったようなところもある気がして、何となく身が入らない。

これとは別のはてなブログを4月頭に始めて、それというのは第一には誰かの気慰めになればいいなということで、第二には死ぬかもしれないならその前に手紙を出さなけりゃ、しかし出せない相手も沢山いるからこうして公開しようということ、折角なので自分の文章がどのように読まれるのか知りたいという思惑も裏にあってのことだった。いろいろな意図が交錯しまくって、最近よく分からなくなってきた。もうしばらくは続けるだろうと思う。知った人と顔を合わせれば毎度毎度ご時世の話をする、そういうのは早晩つかれてくるので、どこかで忘れる場所がきっと必要で、そういう場所になれればいいなと思っていたが、案外みんな、私なんかよりずっと強靭で適応力がある様子で、私の書くものがまずいのもあって、もしかしたらあまり意味がないかもしれないなと思い始めている。しかし兎に角、もうしばらくは続ける。

「こういうご時世に批判をするなと言う人があるが、こういうご時世だからこそ批判して、改善を目指さねばならないのだ」というようなことを細馬氏がツイキャスで言ってた。細馬さんはここのところ毎日、「沼ヴィジョン」なるタイトルでお酒を呑みながらしゃべっている。そういう「期間限定特別コンテンツ」みたいなのとか、団結の気運とか、すごく盛り上がっていて、(音楽家たちのうたつなぎ、とか、そういうリレーの類)一方ではもちろん、大事なひとや場所を守るために奔走している人たちにとても感激して、感謝もするのだが、こうしたものを摂取したり、或は参画したりするのは一定程度に抑えておいたほうがいい、という気もする。不自由なく健康に普通に過ごしている私は、異常を忘れる平らな時間も持たなきゃ。普通と平常を守らなければいけない、という気がする。じゃなきゃ、あと何か月も体がもたない。直感でしかないが。

明日早起きする理由は、べつにコロナ鬱を避けるためじゃなくて、早起きした方が健康によくて、出来ることが増えるから。zoomを繋ぐ理由は、とおい異国に一人いて、淋しかろうあいつの気慰みになればいいなって程度のことで、生存確認とかなんだとか、そういう大層なものではない。行動選択のすべてがコロナに関係するというのは、ちょっとありえない。早起きするなんて言って、結局この時間になってしまったけど。