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卒業論文については何の進展もないが、ずっとAマッソの動画を見ている。公式チャンネルにあげられているのと、静岡朝日テレビで放送されていた「Aマッソのゲラニチョビ」のアップロード版を、この二日で半分くらい見た。客観的には今年度での卒業をあきらめた人間にみえるだろうが、まだ全然諦めていない。あと1か月で提出する論文は一文字も書いていない。何なら進路も決まっていない。どうなることやらわからない。関係各所には「乞うご期待!」と言ってある。

それはそうと、Aマッソがひたすら面白い。Aマッソには加納さんというひとと、村上さんというひとがいて、二人は小学校からの幼なじみであるらしい。ネタや映像の企画などは主に加納さんが担っていて、村上さんは大抵の場合、色んなことを後から聞かされるほうにまわる。YouTubeで見られるコントや漫才は数が限られているが、動画などを見ていても、うっすら不条理で覆われている作品世界のなかで、村上さんは不条理そのものを醸成する役割を担っていて、一方加納さんは膜の内外を自由に行き来できるというか、ツッコミとして村上さんのワケワカラン行動をいなすこともできるし、いなす方向をずらすことでより不条理の色を濃くすることもできる。「Aマッソのオッチンバーグ~村上がバチってなった」だと、「コンセントでバチってなると達観する」という決まりは加納さんによって規定されたものだが、実際達観した村上さんの様子とか受け答えを前にして、加納さんは必死に笑いをこらえる。加納さんによって持ち込まれた不条理は、村上さんの演技力ととっさのワードチョイスによって具現化され、加納さんの振る舞いで無効化しかけることも、更に強化されることもある。ゲラニチョビにしろ公式の動画にしろ、一見普通の企画動画であっても現実のお約束をゆがませる罠が仕掛けられていて、油断も隙もあったもんじゃない。現実と虚構の境界線が露骨にぼかされているので、どこからどこまで作り物なのかが却って気にならなくなる。単純に彼女たちがつくった「おもしろいもの」にのっかればよいので、見ていてすごく居心地いいのだ。

大勢の芸人さんが出ているお笑い番組をみていて、「すごく面白いけど、この人本当はこんなことやりたくないんじゃないかな」とか、「今のツッコミ、ツッコまれた方からすれば結構キツかっただろうな」とか、テレビのこちら側からあれこれと勘ぐって、疲れ切ってしまうことが急に増えた。「傷つけない笑い」が一体何なのか、この1年で考えたひとは(芸人さんに限らず)少なからずいるはずで、文藝冬号に載っていた大前粟生さんの「おもろい以外いらんねん」は、「見ている側」がお笑いに求める一つの答えを提示していたと思う。

容姿なり性別なり、外からみえる構成要素をあっけらかんと素手で掴んで、馬鹿にしたり偏見を押し付けたりする。そこで生まれる簡単な笑いを、前まではもっと簡単に享受できていたはずで、ひとつのパラダイムシフトに立ち会っているのを実感する。

人間が沢山いるときには、その場の雰囲気が一番大事で、よい雰囲気作りに貢献できるやつが偉くて、流れに水差すやつは、悪ければお荷物みたいに思われるし、よくても子ども扱いだ。そういう約束を教室の空気で察して、どうにか順応して来たつもりでいる。フルーツバスケットでひとり座れなかった罰ゲームで小島よしおの物まねを命じられたとき、どうしてもやりたくなくて、全員の視線を浴びながらまんなかで泣き崩れた小学三年生とか、カラオケで友達が「HE IS MINE」歌ってて、今度会ったら、の直後にすかさずマイクを向けられたけど何も言えなかった四年前とか、火傷の跡みたいに残る記憶を、お前そんなに悪くなかったよと許せるようになった点では、かなり、断然、生きやすくなった気がする。けど、同じように私だって、集団の中の一員として、誰かに約束の遂行を求めたことは何度もあるはずで、はたして遡及処罰すべきじゃろうかと考えている最中であり、当時察した約束が100%間違っていたとも思えなくて、今はすごく座りが悪い。

YouTubeの何がいいって、出演する本人がやりたくてやっていることだから(厳密には事務所とか作家とか、色々あるのかもしれないが)、強い力関係の下に敷かれず、のびのびやっている演者を見られることだと思う。お笑い芸人の人たちだって、笑いのために自虐に走ったり、やりたくない(やりたくなさそうにみえる)ことを無理にする必要はない。逆に、テレビでやってたらしんどくなってチャンネルを切り替えるだろう企画でも、「当人たちがやりたくてやっているのだ」と思えば楽な気持ちで見られたりもする。構造的な問題は確実にあって、こういう考え方は危ういかもしれないが。

好きな芸能人が出る番組をいちいちチェックしなくても、YouTubeを見ればいいと思う人は、既に結構いるのかもしれない。ぼる塾が好きな妹に勧められていくつか動画を見たけれど、テレビの中にいるぼる塾より、好きなものを食べたりたわいもない話で笑いあう彼女らのほうが、見ていて嬉しくなる感じがした。「芸人」であるからといって、絶対面白いことをしなくちゃいけない訳じゃない。こっちが好きで見に行っているわけだし。笑えればもうけもんだけど、ただそこで談笑していてくれるだけで、別にいい。そういうゆるさは、見ている私たちにも許しを与えてくれる。「芸人」とか「サラリーマン」とか「主婦」だとか、ラベルを貼られる前の私たち、みんな等しく人間だよね。

Aマッソの動画には、そういうゆるさが一切ない。視聴者にエンタメを提供するために、プロが頭をひねりにひねった痕跡が各所に見て取れて、「ゆるトーク」と称した動画でさえ、事前にしっかり企画が練られているのがわかる。面白い動画で再生回数を増やす、という以前の、「プロの芸人として全員笑かしてやる」という信念が、画面の外までびりびりと伝わってくるのである。

傷つかない笑いって何だろうと思う。面白いと思ってやっているひとたちを見て、誰かが傷つくのはとても悲しい。だったら最初から無理に面白くしなくていい。いたって普通に、仲良さそうに談笑していてくれた方が、見る側もずっと気が楽だ。Aマッソの動画を見ると、そういうのが一旦全部吹っ飛ぶ。一気に目が覚めて、脳細胞が活発に動き出して、もっとくれ、もっと意味わからなくて面白いものを見せろ、と懇願するような気持ちで次の動画に飛ぶ。そしたら加納さんと村上さんの二人がキャットファイトしてたりして、それがやたらと面白い。本人たちが面白いと確信してやっているのがわかるから、うわーと顔をしかめながら、腹の底できちんと面白がれる。Aマッソは多分もっと売れて、テレビとかにも沢山出たくて、私もテレビに出てるAマッソが見たい。

ボケとツッコミという制度の上に成り立つ笑いが、誰も傷つけないようにするには、どうしたらいいんだろう。互いに人間として尊重し合うとか、信頼関係を築くとか、そういうことかもしれんけど、それだけじゃない気がする。もっと構造のほうからもアプローチせないけん気がする。演じる人と見るひとがきちんと約束を共有したほうがいいんかな。察する、とかではなく。んん、でもまだよくわからん。