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考えていることはたくさんあるけれど、ひとつひとつが小さな泡で、どこからともなくあわあわと発生して、ぶつかり合っては消えていく。泡より飴がいいと思う。熱して柔らかくなった飴をにゅいんと伸ばして、とがらして、丸めて、そうして作品と呼べるものを完成させて、一枚写真を撮った後、また熱を加えて、やり直す。未熟な姿を残すことにも、これまでの営みを捨て去って新しく始めることにも、怖れがあって立ち止まる。一時の目の慰めだと思えば、パチンと割れても惜しくはない。けれどもやっぱり、飴のがいいと思う。泡はきっと石鹸だから食べられないけど、飴だったら食べてもいい。甘ったるくてかなわない、ということはあるかもしれぬ。

情報の交錯の中に自ら身を置いて、見たり見なかったり見ないふりをしたり、聞いたり耳を塞いだり狸寝入りをしたりする。小さな頃に比べたら、随分怖いものは減ったから、家中の扉を見て回って、閉めたかどうか確認しなくても眠れるし、20世紀少年のCMを思い出して怯えることもなくなった(今思い出してちょっと震えたのはご愛嬌である)。いろんなものをひとしきり怖がって、最終的に一番怖いのは、なんと陳腐な結論か、己である。美しいと感じるもの、面白いと思うものたちを、嫉妬の眼鏡で遠巻きに見て、「こんなものだ」と安心する。あほくさくっていやになる。あと何回脱皮を繰り返したら、すらりと素直な身ひとつになれるだろうと思う。

身にまとっているめんどくさいもの、全部取っ払ってしまうにはまだまだ暇が要りそうで、今はただ、時間ばかりが友達である。簡単な話、死んだひとやうんと古いものなら、怖くない。それらに対する評価とか、置かれている関係性の網の目とか、全部無視して素直に好きだ、素敵だと言える。本当に?ちょっと自信ないけど、うん、今はそういうことにしておく。

よく見える目、よく聞こえる耳、透徹した頭が欲しいと願う。願うばかりで、体はベッドに横たえて、漫然と活字を追うばかりである。あと何十年あるわけだしと、楽観的な自分もいるにはいるが、あるかどうかも本当にはわからない、そのあと何十年を、今時分からあてにするのも、少し見当違いだろうと思う。いろいろなことがわからなくて、乳製品が好きだということだけがはっきりしていて、ヨーグルトも牛乳も、馬鹿みたいに消費する。今度も二日でなくなった。明後日くらいに買いに行く。