8/27

ボランティア先の同僚と話しているなかで、その人が「所有するのは怖いことだ」と言っていた。長らくアルバイトで生計を立てて来たその人は、最近正社員に登用されて、却ってなんだか不安定になったという。いったん何かを手に入れたら、手放す不安に苛まれるから。よく聞く話ではあるけど、最近とみにそう感じる。というか話しながら実感していた。同じ場所で働いて、そこにいるからたまたま喋ったりご飯を食べたりしてきたはずなのに、2年経つとさすがにどうも、「同僚」以外の名前がついてもよさそうな関係性になってきた。仲良くなれればいいと思ってきたはずだけど、いざ「友達」を目前にして足がすくむ。「同僚」だったから話さずに済んできたことまで打ち明けたり、「友達」のやるべきでないことをしでかして、やっぱり無理だった、時間の長さに勘違いさせられただけ、そういう結論が出ちゃったら? 出会った瞬間に生じた関係は事実としてずっと存在する、だけど大なり小なり必ず別れがくる。別れによって出会いの事実が消える訳では決してないけど、関係性は変わっていく。いつまでも変わらないと見えるものの裏側には誰かのものすごい努力があるのだ。変わっていく関係をあらわすのに、意味の固定された名詞を用いること自体、無理があるように思う。

仲良くなりたい人と仲良くなるために遮二無二頑張れていた時期には、面と向かって「あなたと仲良くしたい」と言えたりした。信じがたい。ものすごく遠い出来事みたいだけど、たった2年前までそんなだった。今より自信があったのだろうし、言わせてくれる人たちだったんだろうし、そもそも別れなんか眼中になくて、出会う喜びにばかり気をとられた。当時の私とその後の相手の努力のおかげで、今も仲良くできている人がいる。随分疎遠になった人も、やっぱりいる。コンスタントに連絡は取り合っていても、何となく通じ合えていないのがわかったりする。もしかしたらまた近づくのかもしれない。このまま一生会わないかもしれない。面倒くさいし、業とか運命の名のもとに観念して、それでもなお寂しくてやりきれない。その程度には、私の人生の大きな部分を、他者との関係性が占めている。寂しくなるのは嫌だから、今の私を取りまく関係を、今以上に深めることを避けている節がある。これがもし物語だったら、展開に乏しい平坦な生命。山がなかろうとオチがなかろうと私の生命だとも思う。面白い方がずっといいとも思う。