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昨日は朝から国文の集中講義だったが、少し寝坊してしまって、朝食のパンを食べながら歩いて学校に向かった。が、ちょうど駅の前あたりで、手に持っていたチーズパンは半分も食べないうちにトンビにかっさらわれて、私は思わず「わあ」と大きめの声を発してしまった。前を歩いていた白杖の女性がびっくりした様子で少し立ち止まった。すごく悪いことをしたと思ったが、謝れなくて、急ぎ足でその人を追い越した。

集中講義のテーマは織田作之助の小説作品だった。ずっと昔に夫婦善哉を読んだことがあるばかりで、しかも中身なんかほとんど覚えていないから、前々日に図書館で本を借り、気慰めに短いものを一、二編読んだ。正直ピンとこなかった。授業の最後に、前期の集中講義で時間の都合上読めなかった、太宰の「フォスフォレッセンス」を読んだけど、こちらの方が私にはずっと近しいものだった。女性性へのステレオタイプな発言とか記述に、最近とみに嫌気がさしているのだけど、そのくせ太宰を好むというのは、何だか矛盾していると自分でも思う。どうやら私は「小説に出てくるきれいな女の人は謎に包まれていてほしいし、時々核心を突く眼差しでのぞき込んでほしいし、悲しくてやりきれない時には何も言わずに母の優しさで包み込んでほしい」と思っている。現実における価値観と小説を読むときの価値観が全く断絶されているはずはないので、自分がこういうこと考えているとおもうと大分、かなり気持ち悪いけど、太宰の書く「きれいなひと」は私の中で具体的な顔を持っていなくって、ああいや、これも言い訳かもしれない。とかく、「一度こうだと思い込んだもの」を捨て去ることは難しいですね。

図書館から出る時に学部の友達に出くわして、「土日に雑誌庫が開いてないのはどう考えてもケシカラン」と愚痴を言いあって別れた。夕飯は例のよく知らない後輩と食べた。今までよく知らなかったことが悔やまれるくらい、聡明明朗ですてきな女の子だった。彼女の悩みに答える才覚を持ち合わせていなかったので、私にできたことといえば、話を聞いて、自分の経験を話して、ちょっと違ったか、と話したことを後悔して、取り繕うように「飲めよ食えよ」と勧めることだけだった。また会えたらなと思っている。ギネスビールはもっと冷えててほしかったけど、チャイナブルーとアボカドのブルーチーズ焼きは非常においしくて、幾分か酩酊した。

(日記をつけていて気付いたが、私は常に、食べてるか感傷的かのどちらかじゃあるまいか。感傷的じゃない時は大体何か美味しいものを食べている時だし、何も食べていない時は腹の好き具合に伴ってナイーブでセンチメンタルな気持ちになるし、食べていてもなお、一緒に食事をしたかった誰かのことを思ってみたりしている。だからどう、という訳ではないが。)

さっき母からLINEが来ていて、何かと思えば13歳の時に私が書いた、高校入学後の自分あての手紙だった。あまりにも恥ずかしいので詳細は避けるが、「to 13歳のme」と冒頭の「well...」は我ながらケッサクであった。覚えたての英単語が嬉しくて仕方なかったのだろうが、それならもっとましな単語をつかえよ、と思わないでもない。