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こうなりたいな、こうできたらな、と日々の生活の中で思う。何か新しいものに触れた後には大抵そう思う。そうするために新しいことを始める場合もある。今やっていることをもっと頑張ろうと思うこともある。何も始めないで、今やっていることが一番自分にふさわしいのだと、思い込もうとすることもある。最後のが一番多いかもしれない。そうして、はじめにに思ったこうなりたいこうしたいが、かなったりかなわなかったりする。全部自然で当たり前で、ある特定の視点から見れば「間違っている」と非難を浴びせかけることも、軽蔑のまなざしを送ることもできるし、「君はまるきり人生というものを無駄にしている」と教化めいた口調で説かれても、「ハアそうですか」と、腹の中では殴り掛かりたいくらい怒り狂っていたとしても、一旦ゴクンと飲み込まざるをえないやもしれぬ。もしくは案外「そうかもな」と素直に反省するかもしれぬ。どれか一つが決定的に正しかったり間違っていたりすることはないと思う。こうすればよかった、と後悔するのも、しないのも、なんかこう、特別に取り上げることでもないと思う。一つの分岐があって、その手前で私たちはひどく戸惑い、思案し、不安に打ち震えたり震えなかったりしながら、それでもある意思を持って選択を行う。だが、その後はそうした意思があったことも余程の事じゃない限り(余程というのは、朝起きる時間が変わるとか、住む場所が変わるとか、名字が変わるとか、そういうことなのかしらね)ほとんど忘れて、何事もなかったようにまたしばらく道なりに進むだけだ。

何が言いたいって、こうなるべき一つの目標みたいなものは他の大勢と共有しうるものではなくて、私一人のものだということだ。それがかなうにしろ、かなわないにしろ。他の誰かが意見しても、本当の意味では少し見当はずれになってしまう気がする。それでもそういう意見が案外響いて、その後の意思決定に影響を及ぼすこともおおいにありうる。それもとても自然なことだ。合ってる間違ってる、ではないと思う。

なんて書くと、ならば全部許されるのか、誤った意思決定というものは存在しないのか、ということになる。私にはまだよく分からない。しかしそうした正解・不正解と、我々が大勢の他者といわゆる「社会」の中に暮らしていることとが、切っても切り離せない関係にある事だけは確かだ。道徳って何なんでしょうね、近所の寺の経堂の裏側、寝転がって垂木を仰ぎ、クルミパンを食べながら考える。小さなアリンコが右の二の腕あたりをずわずわと歩き回っているのがわかる。この頃はそれさえ許せてしまうのだ。品のないことだと叱られる。誰に?