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昨日は昼から外出して、後輩にあげるためのプレゼントを選んでいたら夜だった。一日中、みっともないほどそわそわしっぱなしで、ことあるごとにLINEの通知を確認して、さながら分娩室から聞こえる初孫の産声を心待ちにするアレだった。私はとても嬉しい。

奇遇なことに後輩も全人類閲覧可能な日記をつけているらしい。読むと言葉の端々が絶妙に鋭利である。使い込んで先の丸まった鉛筆みたいな。印象としてはやわらかいんだけど刺さるときは刺さるみたいな、どうもうまい例えではないが、何となく鉛筆みたいなやつなのだろうと思い込んでおくことにする。私はとても嬉しい。文房具屋に行くのは好きだ。

 

おとといは、「これはきっと寝坊するだろうな」と思っていたら寝坊して、昼飯を作りながら「きっと3限にも間に合わないだろうな」と思っていたら13時で、布団の上で「今日はもう授業に出られないだろうな」と思っていたら着替える気すら失せたが、残り僅かな義務感と勤勉性がそこだけは食い止めて、奮起して13時半から言語学の講義に出た。出てよかったと思う。昔の偉い哲学者の講義録が本として出版されることはままあるが、今受けているような講義が後になってありがたがられて、「リアルタイムで受講できた人は羨ましい」などと言われるようになるのだろう。少しウトウトしてしまう。私は日々色々なことを学んで判断力を養っていく。未来の予想も随分うまくなったけれども、予想した未来を自分のものとして引き受けることばかりは難しくてできない。「講義の内容を録音して逐一文字に起こしたら将来役に立つのではないか、うへへ」とまでは思わないにしろ、ここで真面目に聞いておくと何かいいことはあるだろう、位の打算性は持ち合わせているのに、実行しないからいけない。いけないなあとスプライトを飲む。スプライトは好きだ。昼間電気をつけないで洗面所に立って、すりガラスのはめ込まれた窓から入ってくる青い光を眺めていたのを思い出すから好き。

言葉について毎日考える。私にとっての「好き」があなたにとっての「好き」と同じだとは限らない、という話はよく聞くけれど、結構な量の語彙について同じことが言えると思う。私が何気なく発した「ばかだなあ」が、あなたにはもしかすれば致命的な一撃になりうる。たとえ愛情から発されていたものだとしても、私は「これは愛情に端を発していてね」とか、説明しない。恥ずかしいから。どこでどう、誰と何をして生きてきたかなんて全員違って、その全ての営みに言葉は少なからずかかわっているはずで、それなら私とあなたの言葉はすべて違っていたっておかしくない、辞書に書いてる?そこに書いてる言葉だって同じだろ、さすがに極端だろうか、しかし全然おかしくないと思うのだ。

最初から多義的且つ多義的であるという認識が共有されている言葉や、含む意味合いが広い言葉、あと簡単な印象だけ表す言葉しか使わなければ、こんなすれ違いは起こらないかもしれない。ベン図ってあるだろ、私が持ってる言葉の範囲Aと、あなたの範囲Bとの、あの重なりが広けりゃ広いほど、誤解が起こるリスクも逓減する。

だけどそういう言葉だけで構成されるやり取りがどれほどつまらないものか、想像するだに嫌気がさす。時々、本当にまれだけど、私とあなたの考えのひだが一つ残らずぴったり一致した、一瞬どちらが私でどちらがあなたなのか分からなくなるような、繋がりあえる一瞬が奇跡の様に訪れて、私はその喜びのために生きているといっても過言ではないのだけど、それって私のひだとあなたのひだが本当なら合致するわけないくらい複雑怪奇で繊細微妙って前提があるから嬉しいんでしょう、だのに私とあなたの交わらないことによる気まずさを避けんとするために最初からひだを減らしてしまうのって何かをあきらめていることにならないか。

記号的な、Aと言えばBが帰ってくると分かっているようなやり取り、これはネット上で見かけることが多い気がするけれど、これも繋がれているようで繋がれてはいない、少なくともAと発したあなたと、それに呼応して機械的にBと発する私とは、直接的には分かり会えていない、合致したとしたらAとBの関係を知っているとある大きな組織の一員になれたって、そういう話でしかなくはないか?

こういうことをもっとうまく説明できるようになりたい。つくづく。