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職員室で、私は手にしたCD-ROMの欠損部分をぼんやりと眺めている。教室から後を追ってきたTは背後から怒髪天を衝く形相でこちらをにらんでいるのがわかるし、目の前に立っている担当教員Wは私とTを交互に見て、鼻で小さくため息をついている。私が生徒だった頃と同じ癖だ。生徒から質問攻めにあっているときであるとか、携帯を隠し持っていることを他の教員に黙っているよう懇願されたとき、彼は今と同じようにため息をついて、「次はないぞ」と大袈裟ににらんだ。生徒にとっては大袈裟で、幾らでも挽回のチャンスはあるだろうけど、私に「次がない」ことは純然たる事実で少し寂しい。今日が教育実習の最終日なのだ。

全員その場に立ち尽くして、誰も口を開かない。私の持っているCD-ROM95%と、Tが持っている残りの5%だけ、窓から入る春の陽光を受けておもちゃみたいに光った。4時間目が始まるチャイムが鳴り終わるころ、W先生がようやく口を開きかけて、そこでまた、職員室のドアが開いた。彼女は無表情でつかつかと入り込んできて、私の右手を引いてその場を立ち去ろうとする。Tが驚いて止めようとするけれど、彼女のハイヒールには誰もついていけない。彼女が許した相手以外、何人たりとも、彼女と歩くことはできないのだ。それも私が生徒だった頃と同じ。懐かしくて場違いな涙が出た。

彼女は何も言わずに階段を滑るようにおりていく。私は黙って腕を引かれながら、翻る彼女の白いワンピースの裾を見ている。地下1階までおりたら突き当りにある水道を右に曲がって、二つ目の教室の前で立ち止まる。美術室だった。私は横開きのドアを引き、中に入っておどろく。壁一面に描きなぐられた絵はまだ残っていた。

「きれいよねえ」

「きたないよ」

「いいえ、きれいよ」彼女がビー玉みたいな目をして私の目を見る。黒目の奥にいつも青色を湛えている理由を、10年来気にして、いまだに尋ねることが出来ずにいる。「絶対、きれい」

私は美術室後ろの壁に近寄って、自分が塗つけた緑色の絵の具の隆起をさわった。上から当然の様に刷毛やバケツ、生徒の絵がかかっていておかしい。やたらとカラフルなその壁は、ただの壁として機能していて安心した。

「時間が経てばこうやって、何でもないことになっていくんだわ」彼女はいつの間にか教壇に立ってこちらを見ている。

「そうかな」

「そうよ」彼女は多分、ほほ笑んでいる。

「だからあなたも、もうそんなに、気にすることないわ」

「そうかな」

「そうよ」

「君もちゃんといるし」

「そうよ、本当に」

学生時代、美術部に所属していた私は、毎日のように彼女と放課後をここで過ごした。彼女は美術部員でも何でもなくて、部屋の中をくるくると踊ったり、私と喋ったり、古いシャンソンを歌ったりして、過ごした。2週間に一度顧問のW先生が来ては、ぶっきらぼうに私の絵を褒めた。私が丘の絵ばかりを描いているのを、先生は少し面白がった。「詩人は誰もかれも、心に丘を抱いているんですよ」とおどけたら、W先生は「それじゃああなたは、とびきりの詩人だね」と笑った。彼女も私たちを見ながら笑っていた。私は余計に丘の絵ばかりを描くようになった。

そのあと少しして、W先生と彼女のことを知ったとき、私は一人で美術室にいた。光が入らない陰鬱さに、唐突に嫌気がさして、それはもう吐き気がするほど嫌気がさして、壁にかかった絵やら邪魔な胸像やら全部引き倒して、私はバケツにためた卵色の絵の具をぶちまけた。

丘の絵を描いた。彼女がそれを見てどう思ったかは知らない。丘の向こうに行ってしまったからだ。

彼女は自分が歌ったシャンソンとか童謡の類を、CDに焼いて残していった。私はそれを持ち帰ることが出来なくて、誰も触らない教室の本棚のうらに隠した。

教育実習で受け持つクラスの合唱コンなんて、初めは興味がなかったが、練習している歌が彼女の好きな歌だったから、よく練習の様子を見に行くようになった。リーダーをつとめるTとは特に仲良くなって、だからTも自分の宝物を見せてくれたのだと思う。「これに入っている歌を参考にしているんです」と無邪気に差し出されたCDを、私はどこか予感していたように受け取り、一思いに割ろうとした。

 

「本当にきれいなところだわ」

彼女がまた呟く。

「あなたの丘は本当に、とびきり美しくて、平和なところよ」

そんなはずはないのだ。あんな気持ちで絵を描いたことなんて後にも先にもなかった。出来上がったものを見て、私は逃げ出した。二度と美術室に入ることはなかった。

「だから、本当に、気にすることはないの」

「そうかな」

「そうよ」

多分もうすぐ戻っていくのだ。今度は二度と会えない気がする。何か言っておくこと、聞かなければならないことを探して焦るけれど、結局私からは何も言えない気がした。第一、全てお見通しなのだ。彼女が今いるところは、私の心だから。

 

 

 

というような夢を見た。尻切れトンボで興ざめした。水嶋ヒロみたいな人が出てきた気がするが、あまり覚えていない。やはり酒に弱くなっているので肝臓をいたわってやらねばならぬ。