11/2

買い物から帰宅して友達と3時間うねうねと通話した後、そのまま編み物を続けながらNetflixで「トランスジェンダーとハリウッド」を見た。長いので半分くらいでやめにするつもりで再生したが、最後まで見ずにはいられない映像だった。トランスジェンダー当事者の俳優や映画制作者、ライターといった人々が、これまでの映画史、テレビ史に登場したトランス、あるいはトランスと思われるキャラクターの表象について語っていくノンフィクション。例えばサイコキラー役。「羊たちの沈黙」に登場するバッファロー・ビルに代表されるように、トランスの人々は精神を病み、無惨な殺人を繰り返す人物として度々描かれてきた。そのいっぽうで、かれらは度々画面の中で殺されもする。「自分も殺されるんだと思った」とかれらの1人は言う。

私自身の記憶を少し探ると、小学生の頃、受け口気味の女性芸人が容姿を笑われているのをテレビで見て、これを私が引き受けなければならないのかと不安になったことをすぐに思い出せる。幸い私にとっては致命的な傷にならず、(あくまで私の経験は)かれらの受けてきた差別や感じた孤独と同列に語るものでもないと思っているが、それでもその絶望を想像する手がかりにはなる。他者から笑われて当然の人間などおらず、つまりは人間扱いしてこなかった歴史が、観客の笑い声入りで映像にそのまま残っていて、むごい。

「こいつは男の格好をしているが、実は女性だ」「こいつは女の格好をしているが、本当は男性なのだ」と暴露されるシーン、人間的なコミュニケーションなど一切ないまま、他人によって胸をはだけさせられる。無理にペニスを露出させられる。そこだけ切り取ったシーンが次々に現れる。判で押したようにどれもこれも同じなのだ。作中ではきっと、センセーショナルで印象的なシーンとして位置付けられている。それがどれほど暴力的なことか、作り手は正確に測れているのだろうか?

9月に行われたカルタイで、「トランスジェンダーの物語とエンパワメント」というテーマを掲げるシンポジウムが行われ、アーカイブ映像を視聴した。最後の登壇者である水上文さんはトランスが登場する日本のフィクションを紹介し、その前提として不適切な表情の問題に言及された。偏見を流布することや極端なキャラクタライズにより他者化してしまうこと(メモに基づいて書いているが不正確かも)と共に、当事者の自己イメージ獲得を困難にする問題が語られていた。自分に似た人と出会えないままシスの規範を押し付けられ、適合することができないで、自分だけが変なのではないかと恐れる子どものことを考える。その子が、家族の見ているテレビや映画を見て、自分に似ているかも、と思ったキャラクターが、無惨に殺されたり、嘲笑われたり、レイプされたりするところを目の当たりにする場面を考える。それを見てやっぱり笑ったり、ひどいねーと無関心に呟く家族の横顔を目の当たりにする場面を考える。

ハリウッドでは「オレンジイズニューブラック」が、「POSE」がようやく制作されて、ヒットを飛ばした。じゃあ日本では? 私がかろうじて思い浮かべられる、トランスが登場する全国区の作品はもう、片手に数えられるくらいしかなくて、それも道化役だったり、恋愛相手から酷い目にあうような人しか思い出せない。近年、同性愛を主題にする作品ならば深夜ドラマなどで普通に見られるようになってきた気がする。しかしそれらの多くはイケメン俳優の登竜門になるような、キャラクターを消費するようなもので、かれらが普通に恋愛する様を見られる作品はまだ少ないと思う。(というか、ゲイもレズビアンも恋愛ばっかりしてるはずないのに、恋愛ものにばっかり出てくるのっておかしくない?)

「過度なポリティカルコレクトネス」がこのまま物語世界を覆い、「本来不要な」マイノリティを「配慮にもとづき」作品に出さなければいけない、そんな規範が生じればあるべき作品の姿をゆがめてしまう、というような言説がある。以前の私は、わかる部分もある、と思っていた。でも、マジョリティが制作してきたコンテンツは、マイノリティを消費し、慰みものにし、かれらがなりたいと思えるかれらを見つける機会を奪い続けてきた。確かに隣に存在するかれらの存在を透明化して、当たり前のように傷つけてきた長い歴史がある。かれらの物語世界における居場所は、すでに、十分に、用意されたといえるだろうか、と考えるとき、私は上記の言説に対して思い切り首を振りたくなる。