12/20

自分の日々の生活について、感情の起伏について、面白おかしくチャーミングに書き残すことに執心していた2年前のことを思い返していた。外から見れば退屈かもしれない毎日を、そんなことないだろって慰める気持ちで、朝昼食べたものとかを一生懸命書いていた。また他にやることもなく退屈だったので、好きな人間や交わした会話のことなどを飽きもせずに書いていた。ほかにも色々理由はあったと思うが、大きな行動選択をする際に毎回100個くらい理由をみつけて絶対化する癖があるので(後からこじつける分が80個くらいある)、それら全てを正確に思い出すことは難しい。

最近はそういう文章を書く気分にならない。誰と会って何を話した、というようなことを、当人に黙って具体的に、誰からも見られうる場所に書くの、かなり暴力的だと思い至ったことがひとつ。自分の生活はそれ自身として続いていくだけで充分に価値があると思えるようになったことがひとつ。あとはなんだ、文章にすることで過度に意味付けしてしまうことに気づいて、ちょっと嫌気がさしてきた。過度に意味付けした過去の記憶を、読み返すことで感傷的に思い出して、さらに意味を強化する装置として機能していた日記だった。

最近より物忘れがひどくなってきている。バイトの日程とか出先に持っていくものとか、そういうものは忘れない。自分が何を考えたかとか、誰と何を話したかとか、昨日何を読んで見聞きしたかとか、そういうことが覚えていられない。心を動かす出来事が時々確かに我が身に起きて、あーっと声を上げて嬉しくなると同時に「これもどうせすぐに忘れるんだ」と自嘲する。何かに思い入れることが難しくなっているし、何というか多分時間が怖い。長期にわたり残り時間が減っていく感覚に苛まれ続けた結果、今目前にあるものに集中することで怖さを回避して、その結果過去についてあれこれ思い返す機会がめちゃくちゃ減っているんだと思う。(そんなふうに思うなら早いとこ卒論書けばよかったのに!本当にそう思うけど無理だったので仕方ない。己を恨め)

とりあえずあと二週間は卒論に集中するとして、それが終わったらまたちゃんと日記を書きたいと思っている。単純に、いつ何があったか覚えておくための日記。全てを書き残すことは出来ないから取捨選択が必要で、その過程で必然的に意味付けが生じる。それはそれで仕方がないのだと思うが、取り敢えず今度は無理に全部面白くしようとはしない日記にする。あとでいかようにも捉えなおせるように。長い時間を経て劣化・破損が生じた文化財を修繕する際には、後年技術が向上することを見通して、可逆的な処置を施される。という話を聞くたびに、何か知らんがとても感動する。そういう日記をつけることにしたい。いつか友人が酒の席で、「今、小学生とこどもにかえって遊んだり、当時苦手だったタイプとうまく関係を築くことで、昔小学生だった自分の過去も変わる感じがする」という話をしていた(はず)。それを聞いてから色々考え方が変わったように思う、ということをいま思いついたので書いた。

めちゃくちゃフラグの様になっているが卒論はとりあえず絶対に出す。どんどんハードルが低くなっている。情けないことだ。