9/15

四日くらい前に、三年と一ヵ月運用したtwitterのアカウントが死んだ。ログインとログアウトを繰り返していたら「不審な動きをするアカウント」と認定され、電話番号での認証を求められ、去年新しくした携帯電話の番号を登録し直すのを忘れていたから、もうどうにもならない。いくつもの無意味な文字たちが、存在しない番号に向かって列をなして飛び立ち、もう二度と戻ってこない。もしくは、新しい持ち主の所にいくつも届いて、心当たりのない人を困らせているのだろうか。だとしたら申し訳ないと思う。

人の日記を読むのは楽しいから、twitterは楽しくて、いつまでも留まれてしまう。人の日記を読むときには、その人の引き出しをこっそり開けたり、机の上に開いたままのページをそれとなくのぞき込んだりしなければならないが、twitterではお互いに了承を得ているので、盗み見の緊張感がない。文字も入れ物もみんな同じだから、時々自分のものと見分けがつかなくなる点でも、違うかもしれない。そういう所が好きだけれど、同時に怖くもある。というか普通に研究がはかどらないので、なるべく見ない様にしたくてログアウトを何度も試み、数十分もすれば物足りなくなってログインし、そういうふうにしていたら、死んでしまった。

あんまり悲しいので、誰かに会う度ことの経緯を喋ってしまい、喋るにつれてそれ程大したことでもないような気もしてくる。「私の徒然草が、枕草子が」と大袈裟に言ってみたら、大袈裟すぎてとても恥ずかしくなった。生活の断片やふとした時の寂しさをメモ代わりに書き留めていた自分のタイムラインのことを、結構気に入ってはいたけれど。遠くに住んでいる近しい人のサインを鈍い自分でもすぐに気づけるようにと思って運用していたアカウントだが、本来の目的はいつしか薄れ、ときどきアピールに傾いて消耗した。ああいうアカウントはしばらく作らずに過ごしてみたい。

そうは言っても惜しいのは会話を始める気安さで、twitterで初めて話した人も、3年ぶりに話せた人もいる。好きな映画、読んだ本をpostすれば、誰かが反応してくれることがあって、その逆も然りである。幸い、前からの知り合いとはtwitter以外にコミュニケーションをとる方法があるけど、そうでない人達と疎遠になるのが悲しい。かといってアカウントを新しく作って改めてフォローしてまわったら、結局同じことを繰り返すのも目に見えている。この辺りが悩ましくて、すぐに作り直してしまうかもしれない。しばらく様子見する。少なくともこの三日くらいは、普段に比べればインターネットを見る時間がぐっと減って、ちょっと調子がいい。