3/18

バイトが終わって図書館に向かう。通りがかったラーメン屋の行列に先輩方が四人、「偶然ですか」と聞いたら「そんなところ」と返ってきた。「お待たせしました」といって列に割入るくらいしてみればよかったかもしれない。

昨日丸善で買ったうちの一冊、北村薫の『六の宮の姫君』を四時間足らずで読み終えた。シリーズはこれでほとんど揃って、あとは『朝霧』を残すばかりだ。四年前には「ワカラン、ツマラン、ナサケナイ」だったこの本を、数時間で通読して、あわあわと感動できるようになったことこそが、私が曲がりなりにも四年間大学に通った証かもしれない、などと思う。

「円紫さんと私」のシリーズを読むたびに思うことだが、読書人生を高1くらいから、いやそうまで言わずとも、せめて大学1回生くらいからやりなおしたい。私だって21にもなれば、ふとした瞬間にチェーホフの「かもめ」の一節を暗唱するような、才気煥発博覧強記の文学徒になっている予定だったのである。例えば私に少しく残った生真面目さがロマンスグレイの紳士の形をとって、目の前に現れたとする。彼に「いったいこの数年の間、文学部で何をしてきたのかね」と聞かれても、何と答えればよいものか分からない。必死に涙をこらえた末に、やっとのことで「感情生活です」と答える。小父様、あきれてものも言えずに燕尾服のしっぽをヒラリ翻して去っていくだろう。無論彼の顔形は松重豊のそれである。見捨てないで、豊……。

とはいえこれも最近思うことだが、21になってようやく人の心のひだみたいなものに、多少思いを馳せられるようになった。玉ねぎのうまい切り方を覚えたのもごく最近で、何をとっても人に二年遅れる。だったら、小説だって、ね。19の気持ちで読める筈だ。そう思うと元気が出る。

物覚えが悪いから、感動したところはいちいちメモにして書き起こす。青色のフリクションが前触れもなく途中で尽きた。あと30分で生協の売り場が閉まるから、その前に買いに行く。『六の宮の姫君』はきっとこの一年の間に一、二回は読みなおすだろうし、ヒントを求めて何度も開くことになると思う。取り敢えず、さっき抜き出したいくつもの箴言の中から、一つを選んで。

何だか、とっても不思議な気持ちがしたわ。人間ていろんなことを考えていろんなことをやっているけれど、それが昔の誰かや、自分達が消えた後の誰かと、どこかでそおっと重なっているんだなあって、そんな気がしたの。

北村薫(1999)『六の宮の姫君』東京創元社

余談だが、四年生になってから始めたアルバイト先で、いきなり新入社員に抜擢される、というところだけは、ドロップアウトした自分や苦境に立つ友人の就職活動を省みて、どうにも許しがたかった。六月にもなってまともな就活をしていないようなお嬢さん、七月には内定を得ているとは。時代の違いを考慮したとて、小憎らしいものは小憎らしい。自分のことを言えば、三年も同じバイト先に務めているけれど、そんなお声がかかる気配は髪の毛一本見受けられない。……あるいは、本当に見込みある若者は無欲に過ごしているうちに、気づけば然るべき位置にいるということなのかしら。つまり私のは芥川の思いつめた重いそれと違って、こういう下らない、綿毛みたいな嫉妬だ。吹けば空まで飛んでいく。