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信田さよ子タフラブ 絆を手放す生き方』を途中まで読んだ。過去に一度でもわかりあえたかもという大きな歓びを感じた記憶があると、また「あれ」が訪れる可能性にすがってしまうのはどうしようもないのじゃないか、だからこそ第三者にはっきり別の道を提示してもらうのは有効だろうが、頭で分かっていても、実際にその人を目の前にして、昔と同じ顔、同じ声で話すその人とのわかりあいを断念するには、とても時間と努力が必要だろうというようなことを思った。相手のために何かしてあげるとか、自分の考え方を相手に合わせるとか、少なくとも見た目には前向きな努力に比して、「あきらめる」という努力には別の心労を要する。正しさの基準をいつも自分の中に持っていなくてはならないから。基準を建造するのに必要な材料を集める場が当事者会だったり読書だったりするのか。