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だれかに執着する時の根拠は、配分こそ時と場合によって色々に変わるけれども、相手への尊敬、共有された時間や事物、同病相憐れむ気持ち、これらによって大方説明できるような気がする。生きていようが死んでいようが、実在しようと妄想だろうと。特に最後に挙げたやつは、見ばえしないくせにかなり強力である。

ものに執着する時には、その向こうにだれかの影を見ている場合が大半だと思う。たとえば「初めて自分のお給金で買った財布」とか、自分ただ一人の記憶・経験にしか紐ついていないものも、捨てがたく思うときはあるけれども、捨てようと思えば案外捨てられる。自分の中だけで納得できればいい。

執着心を表にあらわすことが恥ずかしいのは、ひとりずもうになるのが嫌だからで、風来坊じみたこだわりのなさで飄々と過ごしていられればどれだけいいか知れないが、そういう訳にもいかない。執着心を遡ってみて根っこにあるのは自分の一番大事なものである。自分にとっては、これまでに出会ってきた他者と、他者の影響により形成されたアイデンティティである。捨ててしまえばさびしい根無し草である。要は全然部屋がかたづかない。自分で買った服などは手放しやすいが、古本とかプリント類とか送ってもらった保存食とか、手に負えない。誰か代わりにやってほしい。マジで。