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昨日は何もしなかった。起きて、朝飯を食って、ツイッターを見て、漫画を読んで、ちょっとだけ志ん生の本を読んで、寝て、エビ中のオンラインライブのアーカイブを見て、ツイッターを見て、トマトを食べて、テトリスをしながら金ロー(昨日は「コクリコ坂から」だった。適当に見ていたので、クラブ棟の名前もカラバッジョだかガリバルディだか思い出せない)を見て、MIU404を見て、川上弘美をちょっとだけ読んで、皿を洗って、寝た。何もしなかったというのは、何も考えなかったということだ。実生活上意味のありそうなことに、ただのひとつも想いを馳せなかった。今日から頑張ると称して寝たわけだが、起きたのは10時近くである。今この時間に家を出ているだけまだましだぞと自分を励ます。

家の前のミスドで朝飯兼昼飯を済ませた上で、これを書いている。オールドファッションとポン・デ・リングストロベリーを食べながら、川端の「葬式の名人」を読んだ。以前にも読んだことがあったが、今度の方がより心に残った。祖父の葬式の最中に突然鼻血が出始めて、親戚連中に見られまいと庭に出て、石の上でうずくまる。祖父が死んではじめての静かに過ごす時間だった。「その時ただ一人になったという寄る辺なさがぼんやり心に湧いた。」父母は幼い頃に死んだのでなんの記憶もない。祖母も姉も早くに死んだ。幼さ残る十六歳の川端が庭石にうずくまって、鼻血が止まるのを静かに待っている姿を、私は同情すべき人間としてではなく、きれいで静謐なものとして思い描く。彼より六つも年増のくせに、かけるべき言葉をひとつも持たない。自分の思いやりのなさに絶望する感じがあるが、未だ痛みの残る悲しみの記録ではなく、客観化された私小説だからこんなふうに読めるのだとも思う。ジャンル分けがこうやって働くこともあるのか。

今自分がどういう位置にいるか、確認するために文章を書く。別に書かなくても死にはしないが、書いた方が都合よいのでこうやって書いている。書いたことが本当になることもある。嘘から出た真というが、実際言葉の現出作用を甘く見てはいけない。自分や他人の文章の大げさな脚色に鼻白んで、偽りなく書くということに執心するような日もあるが、初めから何が本当で何が嘘なのかもよく分からなくて、書くことでどちらか一方に固定して、そうして初めて楽になる日もある。こういう文章を私は、少なくとも今は、自分の生活の利便のために書いている気がする。というようなことをミスドの隅っこで考えた後、アイスティーの氷が溶けて水になったのをズビビと吸い上げた。今日も暑くて嫌になる。こういうのが実生活上役に立つ思索かといえば、そんなことは全然ない。