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昨晩出町座に「銀河鉄道の夜」を見に行った。本当は七夕の夜に見に行きたかったけれど、どうせ人が多いだろうと思ってやめた。上映前、店内でスタッフの方とお客さんが立ち話をしていて、本を眺めるふりをしてこっそり聞き耳を立てていたら、案の定一昨日は満席だったらしい。今日でナイター上映が最後だから、また少し増えるんだと思う。昨日突然思い立ってよかった。あの映画を見た後は夜空を見上げながら帰りたい。

宮沢賢治にファンレターを書いたことがある。小学四年生の頃だった。学習塾の国語の授業で書かされたんだったと思う。何を書いたかはまるきり忘れた。だけど他にも、学校のパソコンの授業でも宮沢賢治の調べものをした覚えがあるし、よほど入れ込んでいたらしい。初めて写真を見たとき、坊主頭にくりくりのつぶらな目が、当時思ってたのと違ったらしくて、ちょっとがっかりした。全く失礼な話である。

今になっても思い入れがあるかと言えば、そこまででもなくて、あの頃読んだ作品のこともほとんど忘れてしまった。一番好きだったはずの「銀河鉄道の夜」にしたって、鳥捕りがどういう風に胡散臭かったかとか、鉄道の窓から具体的に何が見えたかとか、ロクに覚えてなかったけれど、カンパネルラが見ている黒曜石の星見表の冷たくぬれた裏面とか、がらんとした駅構内とか、断片的なイメージは脳裏にしっかり焼き付いている。映画を見ている間中、自分の頭の中の景色とスクリーンがぐるぐる混ざり合って、途中から夢だか現だか分からなくなってしまった。背景の油絵は、輪郭線が描かれないので全体にぼんやりとして、淋しい色合いをしている。知らない街の知らない風景に、底の知れない時間の堆積を感じる。上映時間の何倍も、何十倍も長い時間を画面で伝える映画は、いい映画だと思う。鳥捕りが鷺を袋から取り出してカンパネルラとジョバンニに分け与える場面があって、ジョバンニが貰った足をかりりとかみ砕くシーンでようやく「ああ、これは他人が作った映画だ」と理解した(原作では確か、チョコレート菓子みたいだとかなんとか書かれていたはずだったけど、この未知にして不可知の食べ物について、私はこの十年の間、相当想像をたくましくしてきた。黄色い鷺の足は身体からぽきりととれるけど、そいつを二つに割くと、干したあんずみたいににちゃりとして、中もやっぱり透き通った茶色をしている。チョコに近いけど、もっと果実らしい甘みがあるのだ…...)。映画で目にしたイメージがまた、私の景色に組み込まれていく。

何も知らずにはしゃいだりはりきったりしてみせるジョバンニと、それが無理だと知っていながら、落ち着き払ってうなずくばかりのカンパネルラが、鏡みたいな目で見つめ合って、向かい合わせで座っている。ひとの気持ちも知らないで、「僕たちどこまでも一緒に行こうね」と上ずった調子で繰り返すジョバンニに、私は今までずっとどこかで苛々してきたのだった。今私は、どちらかと言えば、カンパネルラに腹を立てている。