5/29

十代の頃、まともにインターネットをのぞき込まなくて本当によかった。今よりずっと執着心が強かったから、下手したら放課後も日曜日も夏休みもトイレも風呂も受験も全部インターネットに費やしていたかもしれない。iphoneは高1の冬から持ってたし、それより前に伯父から古いMacintoshを譲り受けていた。何に使っていたんだっけな。無料で着せ替え遊びのできる海外サイトとか、bump of chickenのmvとか、はやみねかおるの裏サイトとかファンが立てたスレとか、そういうことしか知らなかったと思う。知らなかったというと少し嘘になって、道義心とか「年相応」とかに小うるさいヤツだったから、あやしげなにおいのするインターネットには、君子危うきに近寄らずの信念でもって、何が何でも見ないようにしていたのだった。でも実際、あの頃のインターネットって、血まみれのアンパンマンの画像とか、人体実験直後のドラえもん、みたいなのが簡単に出てきやしなかった? 踏み込めばこれより怖いものが見えてしまうのだと思っていた。あながち間違ってやしないかもしれないが。

児童書やジュブナイルが面白かった一番の理由は、知らないことと、知り方の分からないことがたくさんあったからだと思う。22になって、知らないことはまだたくさんあるけれど、アクセス方法すら分からないものとなると、かなり限られてくる。世に出た大人向け小説の九割五分は、恐ろしいことに、90%以上、人間のことばっか書いている。嘘だけど。残り少ないアクセス困難な知識のうち、前景化するのは大抵人間のことだ。残りは後景に追いやってしまう。後景にピントを合わせられる人は、他人からすごく褒められる。眼がいいんですねって。私は遠視で、至極眼筋が弱い。眼がいい人は勿論だけど、近視の人もちょっと、羨ましい。

インターネットは一番簡単に、他人にアクセスできる場所なので、気を抜くとすぐに魅入られて、危ない。今だって十分に危ない。インターネットで気軽に得たパーツを、これまた安易に、例えば腕部に溶接したり、顔の上からかぶったり、お腹に巻いたりしていれば、いつどんな弊害が起こるか分からないでしょう。バランス失って立てなくなったり、見た目が不格好になっちゃったりさあ。十代だったらもっとヤバかった。今はほとんど外付けで済むけど、当時だったらパーツごと取り換えてたに違いないので。やすやすと。十代の頃にインターネットを知らなくて、よかった。

というような考えに対して、果して本当にそうかしら、と疑いはじめたのが最近のことで、まだ結論は出ていない。

自分が住んでいる町は、実は高位の巨大組織が何らかの実験のために用意したミニチュアなのではないかしら、と想像して怖くなることがある。よくある。多分なんかの読み物に影響されたのだと思うけど。なんなれば国ごと、地球ごと、もっと大きな何かの手のひらの上で転がされているんじゃないかと思う。外側は真っ白い実験室で、ガラスケースの中に入れられた私たちを、神でもなんでもない何ものかが、興味深そうにのぞき込んでいる。この想像のゴールは決まっていて、もしそうだとしても自分には知り得ないので、多少癪だが、どうしようもない、という諦念である。インターネットをのぞき込んだ時に抱く気持ちはこれに似ている。分かりたい・分からなきゃ、という気持ちと、分からなくても仕方がないし、分かったところでどうなるか、の気持ちが交互に来る。分からないと私になれないぞ、と思う時と、分からないけど私は私をやるしかない、の時とがある。有意義と無意義を行き来する。インターネットがまだ少し怖い。

8時には起きてバイトに行かねばならぬ。いつ捨てたのか、今のような季節のはざまに着る服が全然見当たらない。帰りにユニクロに寄ろうと思う。今日はずっとインターネットを徘徊していたので、発表レジュメが相変わらずやばい。