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諭吉佳作/menさんのことは一年前くらいから名前だけ知っていた。今日はほとんど本を読むか諭吉佳作/menさんのツイートとブログと楽曲を追うかのどちらかしかしていない。諭吉佳作/menさんは高校二年生だが、twitterのbioには高校二年生とは書かないことにしたらしい。

この人の文章とか楽曲とかについて言えることは、うまくて、達者で、大人っぽいけど、うまいとか、達者とか、大人っぽいとか、そうした言葉でこの人を形容したくはなくて、またそれらはものすごく的外れなのだということだ。そのくせつい、私が彼女の年齢だった当時のことを考えてしまった。うまく、達者に見せることばかりを考えていたので、何しろ見栄っ張りだったから、だから仮にあの時書いたものとか考えたこととかを外に表明していたとしたら、それは大人の真似事でしかなくて、また周囲からも大人の真似事をしているんだな、としか見られていなかったと思う。実際、高2の文化祭で一つだけ短い小説を配布したことがあって(これは自分の中でかなりの黒歴史に属するのであまり蓋を開けないようにしている記憶なのだが)、その小説が友人のお父さんの手に渡って、友人曰く「初期の村上春樹みたい」とのコメントを得たそうで、当時の私はこの数少ない褒め言葉(?)に少しばかり浮かれたのだけれども、上のようなことを考え合わせると、あまり浮かれる類のコメントでもなかったように思う。いずれにせよ、最後まで読んでいただけたことはありがたいことで、村上春樹を一度も読んだことなかったのは申し訳なかった。ともかく、諭吉佳作/menさんは自分の言葉で書いたり歌ったりしていて、そのうえで世の中と対等に渡り合っている感じがあって、格好いいなと思ったのだった。ここまで書いてきて思うことは、私はさっそくこの人の文体に影響を受けまくっている。人の文章にすぐに影響される。最近ネット上に公開されている人の文章を読む機会が多くあるが、何となく、4つか5つくらいの派閥に分けられそうだなーとよく思う。分けられそうだなーと思うだけで、それ以上考えないようにしている。分けられるはずのものでもないし、どう転んでも誰かしらに失礼なことになる、という気持ちが強い。国語国文がそれでいいのかと思うが、自分はやっぱり研究者より、研究される側に心を寄せていたい。