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何がどうしてこんな風に落ち着かないのか分からない。昨日がとても楽しかったので今日こそ頑張ろうと思ったのに何もできなかった。百閒が昭和11年4月20日の日記に「無為。無為と書くのは、何かしようと思つてゐる時の癖らしい」と書いていて、確かになと思う。やるべきことをしなかった自分をせめて自ら引き受けないと、今日を上手く終えられない。明日こそ8時に起きて、二度寝はしない。

今日(昨日)の昼ごろ、頼んであったちくまの百閒集成が届く。いよいよ居住空間の確保に難が生じて来た。せめて一冊位あたらしいのを読もうと思って、ベッドに寝転がって『ノラや』の巻を開いた。巻頭においてある「猫」は小川洋子の編んだアンソロジーで読んだことがあった。その次の「白猫」を読んでいる途中で寝てしまった。夢なのか小説なのか途中までよく分からなかった。三匹の鬼が私を取って食おうと追いかけて来て、靄のかかった橋のところで追いつかれそうになる。そこで、これが実は百閒の小品の内容であることに気付く。「L」という題名だった気がする。「猫」と明らかに構造上の関係性が見いだせて、この事を指摘した論文もほかに見当たらなくて、「なんでこんな簡単なことみんな気づかないんだろう? でもこれで卒論書けるじゃん、ラッキー!」と思ったあたりで目が覚めた。何となく惜しいことをした気持ちになったが、百閒に「L」などという作品はないし、いずれにせよあの内容だけだと恐らく卒論にはならない。どうやら月曜1限の卒論演習を気にし過ぎている。今から急いでも仕方がないので、明日(今日)から出来ることをやるだけ。

やはり家に食べ物がありすぎるというのはよくない。冷蔵庫の中身の管理が滞って、今日は人参の端切れと絹豆腐とあぶらげがだめになっているのを見つけて、捨ててしまった。あれだけで味噌汁四杯はいけた。勿体ないことをしたと思う。多少不足しているところから工夫によってどうにかしようとするからやる気が出るのである。物を持ちすぎること、つくづく考え物である。早く段ボールを片付けたいが、かつぶしとか缶詰とかレトルトとか、暫くなくなりそうにないものばかり入っていて、取り出して置ける場所もないので、結局そのまま放置することになる。一見無表情だが、こちらの生気を吸ってずむずむと大きくなっていきそうな禍々しさの漂う箱である。明日の昼はレトルトのビーフシチューとレンチンご飯。

久々に先生にメッセージを送った。「元気ですか」というところが眼目であったが、うまく伝わらなかったようで、ちぐはぐなやり取りが続いている。しかし兎に角、返事が来たので安心した。安心するのも失礼な話かもしれないが、ほっとしたんだから仕方ない。出来るだけ早く福島に行ければいいと思う。出来れば今年の夏くらいに。

今日(昨日)ずっと考えていたことは、私は結構たくさんの大事な友人を、「去る者追わず」とか分かったようなことを言って、みすみす手放してきたんだなあということである。友人関係を持続させるということに、もっと早くから自覚的であればよかったと思う。中学二年の時に初めて遊びに誘ってくれたあの子とも、高校の時結構一緒にいたあの子とも、今となってはどんな風に話せばいいか、まるで分からない。あの子の下の名前に使われている漢字が「日」なのか「陽」なのかも怪しい。人の名前も誕生日もすぐに忘れる、自分のこういう薄情さが、結局自分にしか興味がないことの証拠みたいで、とても嫌だと思う。LINEの友達欄で検索してみたけれど、アルファベット表記だったのでわからなかった。一年既読の付かなかったメッセージは、いつかデータが一斉に消えちゃったせいで、結局あの後読まれたかどうか、二度とわからなくなってしまった。アイコンもホーム画像も高校時代のままだから、あのチャットルームでいくらわめいたところで、彼女が訪れることは多分もうない。

去年から高2-3のクラスメイトと連絡を取ることが一気に増えて、なんていうか、こういう風にするんだなというのが彼女らのおかげでようやく分かったから、自分の怠慢が一層悔やまれる。それとも、まだ遅くはないのかしら。いっそあと五年くらい経ってから会えるのが、お互い完全に「昔の友達」になりきってから会うのが、一番簡単なのかもしれない。その時には、思春期真っ盛りだったはずの相手が大人になっているところへ突然出くわす訳だから、私も自立した大人として接したいと思う。思うのかな。本当は駆け寄って首っ玉にかじりついて、ねえ今まで何してたんだよ、ってワンワンわめきたいんだけど、大人だからきっとそうはしない。しないのかな。本当にそういう場面に遭遇したら、案外やっちゃうかもしれないな。