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さっき、今日一日温め続けた布団の中で考えていたのだけれども、私は死ぬまでに一つ小説を書く。いつ書き始めるか、書いてどうするのか、大体本当に書くのか、などは果たしてどうだってよくて、重要なのは「私は死ぬまでに小説を書く」ということを、私が知っているということ。今私がこうやって、寝たり起きたり食べたりしていることのすべては、その時のためにあるのだということ。せっかく書き上げる小説なので、ひとかどのものに、出来ることなら無上の傑作にしたいのだということ。それまでに出会った人すべての所に持って行って、仕事中だろうが子育て中だろうが旅行中だろうが服役中だろうがなんだろうがかんだろうが、目の前で最初から最後まで読んでもらう。最後の頁がめくられたら、底なしの沈黙そのもののような白頁が表れて、私はそこで初めて口を出す。「あなたのおかげでこれが書けたのよ」って。死ぬならそれから死にたいということ。そういうことだ。そういうことだった。ひょんな思いつきなのか、ずっと前から考えていたことなのか、自分でもよく分からない。実家の裏戸口をでると、セメント塀と母屋との間の砂利場に出る。今となっては走り回ることもできないほどの狭さで、見上げると、塀・家の壁・隣接する病院の壁で切り取られた、これまたひどく狭い空が見える。それに比べると、今バイト帰りに川沿いを歩きながら見上げる空は馬鹿みたいに広い。本当に広いのだ。雑草だらけの砂利場でぼんやり立ちつくしていた時間を思い出して、ようやく気づいた。書いていて気づいた。もちろん今までだってぼんやりと、広くていいなあ、楽だなあ、とは思っていたけれど、それはなんというか、締まりなくどこまでもだらだらと続く空への一時的な共感に近かった。そんなんじゃなくて、はっきりと、きりりと、「広いというのは、とてもいいことだ」と悟られた。当時に比べて、自分がとても広い場所に出られたのだ、ということ。先日の言語学の授業で、先生が「物語文というのは、今ここにないものをも現出させる力があるのだ」と言っていて、えらく当然のことを言うもんだな、と思っていたけれど、でも、それってやっぱりとても重要なことだ。つくづく私には、書くことだけだ。読んで、聞いて、話して、書くこと。凡庸な結論だと笑うか。私も凡庸だと思う。今に見ておきなさい。あーあ、いつになるか分からないけれど、私は死ぬまでに小説を、でたらめだらけの面白いものを書きたいので、そのために生きのびる。なんてね。お目汚しを。いちいちこんな風に大袈裟に宣言しないとやっていられないものか。