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昨晩母から届いたメールに、珍しく画像が添付されていた。おととい観に行った展覧会で撮った写真らしい。暗い部屋の中、縦長でちょうど畳程の大きさのパネルが隊列を組んで奥まで立ち並び、それら一つ一つに滝が流れる映像だか画像だかが映し出されている。様子を撮ったらしいのだが、何しろ母の携帯電話は私が小学5年生のころに買い替えた、古器旧物と呼んでも過言ではない代物なので、極端に解像度が低い。全体にぼんやりと薄青く光っていて、映り込んだ来場者の女の影も輪郭がにじんでいるから現実感が薄い。本当に流れ落ちる滝の間近にいて、露出した頬や腕を湿らせながら、細かい水の粒子越しに見える景色に、ぼうっと目を奪われているような気分がした。きれいな写真だと思った。

母も今年で54になる。数年前から老眼鏡をかけはじめ、雑誌なんかも裸眼では、腕が伸びきるほど遠ざけないと読めなくなった。母に見える景色がこの写真みたいに曖昧になっていけばいいと思う。人の表情や声色に、見えるものも見えないものも、見なくていいものも見出して傷つくことが多かったひとだ。私は時々そうした母の性質にいらだち、娘の分際で説教じみたことを言うこともあった。何を勝手に傷ついているの、と。当時は母のことを幼すぎると思っていた。なんと幼かった私だろう。今もそう。

私もいずれ年をとり、本も読めなくなるだろう。そのころまでに曖昧を、景色ににじんだ輪郭ときれいな光だけを読み取って、ただ綺麗だと素直に思う、そうした単純さを獲得できるといいと思う。今はミミズののたうちまわった跡みたいに、複雑に絡まって訳が分からなくなるばかりである。今のたうち回っているのは別件である。ほうじ茶ラテを飲みすぎて腹が痛いのだ。

ここに書きつけているのもそういう跡だ。いずれ地面は日の光でカラリと乾ききって、ミミズがいたことすら皆忘れる。そういうことを思う。